勉強をする意味
あんたも子どもの勉強を眺めることがあるかい?
我が家の息子はくもんを算数だけやっていて、毎日ひーこら言いながら問題を解いている。
くもんの場合は、量をこなせば自分の学年とか関係なくずんずん先の学年の問題に進んでいくもんだから、今は5年生だけれども中学生の問題を解いている。
#連立方程式って中学2年生だっけ
で、その様子を眺めていると、圧倒的に苦手としていることが見えてくる。
文章題がめちゃくちゃ苦手っぽいんだよな。
今回は子どもにとっての文章題ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと子どもの見ている世界ってやつを想像してみようぜ。
文章をそのまま数式で表現するという行為
例えばこんな問題があったとする。
りんごとみかんをあわせて10個買いました。みかんはりんごより2個少ないです。
りんごとみかんは何個ずつ買いましたか?
俺らからしてみればりんごなりみかんなりの買った数をxにすることで
x+(x-2)=10
って普通に考えるじゃんか。
で、息子の様子を見ていると、このりんごとみかんの数ってのを何かの式に置き換えるってのが感覚として持ててないらしいんだよな。
わからないものをxとして仮においておくって感覚がなくて、どうやってもいきなりxってものを計算し始めちまう感じなんだよな。
つまり、答えを導き出すための論理的な思考を式という形で表現する前にりんごは6個って答えを追い求めちゃう感じ。
プロセスじゃなく答えを重要視する意味
その姿を見ていると、息子が「結果」を求められ続けているって感じているって意味なんだよなって思ったりする。
確かに学校の勉強ってなると、テストでの結果だったり、シンプルに「解けた」という結果だったりというものに達成感を感じるってのは自然だよな。
でも、これは一つの現実を示している気もする。
俺たち大人は「なぜ?」を子どもに伝えることが出来ていないってことなんだよな。
そもそもなんで勉強するのか?
大人になった時に困らないように?
確かにそう言う要素もあるとは思う。
でも、仕事をする上で連立方程式を解くってシーンをこなしているヒトって少数派だとも思う。
微分積分なんてもっとだよな。
国語の読解問題とかは使うシーンがあるような気もするけれど、作者の意図を出題者がどう読み取ってほしいかなんてのを予想するテクなんてのは仕事で使うことは稀だし、そもそも読解力が必要な書類を作ってんじゃないよって話になる。
つまりさ。
勉強の「結果」そのものには世の中的には価値はあんまりないんだよな。
子どもが勉強する価値
じゃあ、そんな風に生きるために使わない知識をなんで子どもたちは積み上げていく必要があるのか?
受験なんて関門をくぐるためにその能力を身につけるってのが世の中の建付けとして存在しているのはわかる。
問題は、なんで俺たちはその関門をくぐった人材に価値を見出しているのかって話だ。
同じ給料を払うなら中卒じゃなくて大学卒業しているやつを雇いたいって思う感覚って普通じゃんか。
これってなんでなんだ?
おそらくは「自分たちがくぐり抜けてきた環境を同じ様にくぐり抜けてきた」って事実が俺たちを安心させるってことなのかな。
要するに自分と同じ「常識」を持っているって思いたいからなのかもしれない。
実態としては、学歴と仕事能力ってあんまり因果関係は無いと思うし、むしろその仕事をどれだけ経験したかの方が仕事をこなす力はつくと思う。
その経験を若いうちにしてもらったほうが吸収率も高いってのは自明だって気もする。
そう考えると、若い方が雇うにあたって効率的って話になるはずなんだけれど、そうはならない。
大学を出てる方が高卒よりも価値があると思うヒトは非常に多いと思う。
つまり、俺たちが作り上げている今の世の中は実質で判断するってことが「常識」じゃないんだよな。
なぜか?
実質なんてものを捉える方法論を確立できてないからだ。
実質を捉えられない以上、俺たちは頼るしか無いんだよな。「権威」にさ。
なあ、あんたはどう思う?
子どもたちに「権威を手に入れるために勉強しろ」と俺たちは胸を張って言えるんだろうか?
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