誰かの立場を想像する必要性
あんたは本を読むのが好きかい?
俺は前にも言ったとおり、わりかし好きなんだが、最近は目を酷使する仕事で活字を目で追う作業が辛くなってきた。
だもんで、オーディオブックを活用しているわけだが、その中で久しぶりに折れが普段読まないジャンルの本に出会った。
「君の名は」
そう、あれだ「入れ替わってるー!」で有名なあれだ。
今回は、いい歳こいたオッサンが青春小説に挑んでみた話だ。
キモいとか言わないでつきあってくれよな。マジで。
「君の名は」を見てないところで原作小説に触れてみた
例によってaudibleで聞いてみている。
で、聞き終わった俺の感想から行ってみよう。
「甘酸っぱ~い」
いやいやいや、オッサンだって甘酸っぱいって思っていいだろ?
あんただって、セカチューとか見て泣いた口だろ?
俺はセカチューについては、独身時代に独りで映画館で号泣していたツワモノである。
でだ、あの話題の映画である「君の名は」を俺は見ていなかった。
特に理由はなかったんだけどね。
あえて言うなら小学1年生を連れて行く映画じゃないような気がしたってことくらいかな。
まあ、そういうことで俺は全く「君の名は」の事前知識なしでこの作品に触れることが出来た。
いわゆる「ネタバレ」があったとしても、この作品の価値ってのはそれほど落ちはしないとは思うが、万が一あんたがこの作品に触れていなかったことを想定してネタバレは避けて、俺の中に残ったものだけをあんたに伝えていこう。
人が人を好きになるということ
この作品を味わったあとに、ふと考える。
なぜ人は人を好きになるんだろう?
そんな疑問だ。
まあ、いい歳したオッサンが何をほざいているのかってことになるが、男女にかかわらず、「こいつと合うな」って感覚にあんたは理由をつけることができるかい?
まあ、なんだかんだ言葉を紡ぎ出すことは俺たちオッサンの得意分野だから出来るかもしれない。でもさ、それあんたの本音か?
この作品に触れて俺は改めて「俺が人をいいなって思う理由」ってやつに思いを馳せてみた。
俺の経験を振り返ってみると、俺が好きになった人というのは男女にかかわらず「誰かのことを考えている人」だった気がする。
まあ、多かれ少なかれ俺たちは誰かのことを考えて過ごしているわけだが、それでも「ああ、この人はあの人のために動いているんだな」って確信できる瞬間がある。
その人がその人自身のためではなく、その人が大切だと思う人のために動いている様。
それは俺にある種の感動を与えてくれる。
俺たちは何のために生きているのか?そりゃー感動するためだろ?(断言)
その俺たちが生きている理由を与えてくれる奴。
そいつを好きになるのは当然っちゃー当然ってわけだよな。
相手の立場を考えると言うこと
相手のことを考えると言うこと。
それは相手の立場ってやつに思いを馳せることなんだと思う。
「君の名は」では、主人公たちが文字通り相手の立場に強制的に立たされるという経験をする。
究極の形での「相手の立場を思う」という経験だ。
その究極の経験を経て、お互いに意識をするようになる。その流れは非常に自然なものとして俺の中に残った。
でも、俺たちはこの主人公たちのように相手の立場というものを強制的に体験することは出来ない。
出来ないからこそ、俺たちは想像する必要がある。
あんたの周りにいる人でいい。
そいつの立場ってやつをあんたはどれだけ考えてみたことがある?
「ああ、またわけわかんねーこと言ってやがる」
「もうちっと、俺たちのこと考えてくれよ」
そんなふうに考えてねーか?
相手が俺たちと同じように悩み苦しんでいることに思いを馳せているか?
普通に暮らしていたら、そんなことは無いと思う。
俺たちは、相手の立場なんてものに時間を使えるほど余裕は無いからな。
だが、それでも。
それでも、考えてみてくれ。
あんたは、あんたの周りの人を幸せにしたいんじゃないのか?
俺たちは俺たちの周りの人の立場ってやつに思いを馳せる義務がある。
俺たち周りの幸せを願うオッサンならな。
なあ、あんたはどうする?
俺たちは、可能な限り誰かの立場を想像してみる必要があるんじゃないか?
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