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見た目に責任を持つこと

あんたも日々の生活をこなす中で色んな経験を積み上げていっているよな?

今、世界中を見回して実に困難な状況に見舞われているヒトが多い状況になってるじゃんか。

俺よりも頑張って仕事を回しているヒトはたくさんいるし、俺よりも国を守るために行動しているヒトもたくさんいる。
俺よりも家族を大切にしているヒトもたくさんいるし、俺よりも知識を得るために努力しているヒトもたくさんいる。

ゼレンスキー大統領の表情が一変したなんて開戦当初のニュースを見ると、そう言う積み重ねているものって表情に現れるってのは本当なんだなぁって思ったりするんだよね。

今回は表情という情報を俺たちはどう扱っていくのが良いのかを考える回だ。

ちっと、大人の表情ってやつについて考えてみようぜ。

大人は見た目に責任を持たないといけない

なんか、ガキンチョの頃に「大人は自分の見た目に責任がある」みたいな話を聞かされた記憶って無いかい?

実際に仕事やら生活やらで担っている責任に見合った見た目じゃないと、世の中から責任を任せてもらえないって理屈だった気がする。

確かにパリッとしたスーツで身を包み、きれいに磨かれた革靴を履いて、唯一の個性を主張できるアイテムであったネクタイで自分を際立たせるって世界観はあった。

そう言う世界観では、ある程度見た目に対するルールみたいなものがあって、そのルールから逸脱しない限り、まあまあ世の中に溶け込めてたってのがある気がする。

ただ、世の中の流れとしてノーネクタイってのが普通に受け入れられる世界観になった。
俺の務める会社では、そもそもスーツとかワイシャツって言うドレスコードが完全に撤廃されて、普通にジーンズで仕事している感じに変化した。

こうなってくると「責任」を持ったスタイルってのにわかりやすいルールなんてなくなるわけなので、自分なりに見た目について考える必要性ってのが出てくるはずなんだよね。

ニューノーマルな働き方と見た目

ところがだよ。

ニューノーマルな世界観によって、在宅勤務がメインになってくると、この「見た目」ってのを気にかけるシーンが激減しているんだよな。

俺も在宅勤務になってからはTシャツチノパンで普通に仕事しているし。

靴なんて履きもしない。なんなら靴下だって履かない。

こうなってくると「見た目」への責任なんて、ナニソレオイシイノ状態だ。

唯一、オンライン会議でたまに資料じゃなくてお互いの顔を映すことがあるから、そこだけ気にしとけばいい感じ。
それも毎回じゃないから、ほぼ気にしていない。

改めて自分の表情を見てみる

とは言え、毎朝鏡の中にいる自分の表情をまじまじと見てみると、結構やばいなって思ったりもする。

生気が失せてる感じがするんだよな。

なんでだろうって考えてみると、やっぱり職場でのヒトの目ってのが俺に張りをもたせてたってのがあるのかもしれないって思うんだ。

決してだらけているって訳じゃないにしても、見た目って言う直接仕事の効率に影響しない部分には自然と労力を割かなくなってくるって感じ。

家族と一緒に暮らしている俺ですらそうなんだから、一人暮らしのヒトなんてホント、見た目が激変していてもおかしくないと思うんだよね。

きちんと感を取り戻す

多分だけれども、この生気のない顔はいただけない。

家族にもあんまり良い影響を与えそうにないもんな。

さてはて、どうしたもんだろう?

アレか?
自撮り写真でもこのnoteとかで晒していけばいいのかね?
いやあ、めちゃくちゃハードル高いぞそれ。

ってかその辺のオッサンの写真なんぞ見たくもないじゃんか。

ありきたりだけれども、意識的に出歩くってことをしないといけないってことなのかもしれない。

誰が見ているわけじゃないんだけれども、不特定多数の目がある場所に自分を晒すってのは地味に意識を変える切っ掛けにできるかもしれないしね。

ならまあ、まずは今日の食事を買い物にでも行きますかね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって見た目に責任を持てば良いのだろう?

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