悪と罪
あんたも伊藤健太郎さんが仕事復帰しつつあるって報道を目にしているかい?
ネットを漁ってみると伊藤健太郎さんの言い訳っぽい言動に対するバッシングにあふれている感じがするよな。
確かにひき逃げという行為をしてしまったことは、ワリカシ今の世の中的には致命的なことだと思う。
被害を受けられた方にとっては本当にいわれのない被害だったわけだしね。
その上で思うんだ。
伊藤健太郎というコンテンツを俺たちはゴミ箱に捨ててしまいたいのが本音なんだろうかってさ。
今回は消費者の観点から芸能人の人間性に対する感覚について言葉にしようって回だ。
ちっと偏った話になるかもしれんけど、付き合ってくれよな。
ひき逃げの認識がなかったという言葉
伊藤健太郎さんはこのニュースによるとひき逃げの事件を起こしてしまったときにひき逃げをしたという自覚がなかったと話しているそうだ。
なるほど。あたったものがヒトだと認識できていなかったって話なんだね。
仮にそれが事実だとすると、認識能力の問題があるが、ヒトに怪我をさせておいてそれを放置したというヒトとしての善意の欠落みたいなことはなかったということになるって感じなのかな?
そこではたと考える。
俺たちはいつから芸能人が人間的に正常なヒトでなければならないってなったんだろう?
昭和のはじめの頃なんてさ、それこそヒトとしてどうなんだって芸能人は山程いたじゃんか?
横山やすしさんとか暴行事件とか普通に起こしていたけれども、彼の繰り出すギャグは確実に日本で受け入れられていたと思うんだ。
インターネットがない時代だからそう言う負の部分の情報にふれる機会が少なかったからってのはあると思う。
それでもそう言う負の部分の報道がなされていなかったのかって言うとそんなことはなかったと思うんだよ。
報道されていたけれども、そんなことをほとんどのヒトが気にしていなかったわけだ。
SNSによる監視社会
じゃあ、なんで俺たちは芸能人に清廉潔白さを要求するようになってしまったのか?
多分でかいのがSNSが俺たち全員を発信者にしたってことだと思うんだ。
この全員が発信者って状況が作り上げたもの。
それが監視社会ってやつだ。
なにか良くないと思ったら、即座に非難の声を上げる。
SNSは俺たち全員を「正義の味方」にしちまった。
俺たちは巨大ロボットも爆薬も使わない正義の味方なんだ。
そして、困ったことにこの正義ってやつは実は正確に判断できるもんじゃない。
伊藤健太郎さんが起こした事件は法律的に「罪」だと判定する事はできる。
でも「悪」だって判定することはほとんど不可能に近い。
なぜって?「正義」も「悪」もこうなったらその状態であるってことを文章で表現できないからだ。
ヒトを傷つけるのは「悪」で間違いないだろうって?
じゃあ、死刑執行をする役目を担っているヒトは悪人か?
違うだろ?
俺たちは実は「悪」を定義できない。
それ故に「罪」を法律で定義した。
そして罪は罰によってつぐないを出来る。
それが法律で定められているわけだ。
すでに法律で定められている罰を受けているヒトを俺たちは「反省していない」だの「釈明するなんてみっともない」だのという社会的制裁を終わること無く続けているってわけだ。
終わりのない謝罪
この無限に謝罪を要求するのって、どっかで聞いたことないか?
最終的不可逆的に解決したって言うあの合意だ。
罪に対して罰を受けて復帰しようとしているヒトに対するバッシングをするってことは、あの合意を反故にしている態度と何が違うのかって思わないか?
伊藤健太郎さんやその他の問題を起こしてしまった芸能人に対する否定の感覚を持つことはおそらく自然な感覚だと思う。
でもそれは「正義」じゃないんだ。
「エゴ」なんだ。
俺たちは誰かを「イクナイ!」と叫ぶ前に、それが自分のエゴの押し付けだってことを認識しておいたほうが良いと思うんだよ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは正義の味方である快感から逃れることが出来ると思うかい?
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