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本物を見るリスクと価値

あんたは本物ってやつに触れているかい?

まあ、なんでもいい。本物の美術品。本物の食べ物。本物の芸能。

本物に触れれば触れるほど、俺たちは本物を見極める能力が磨かれていく。

でも、それって、本当に俺たちの幸せにつながることなんだろうか?

今回は「本物」の価値とそれに触れることの「価値」ってやつを考えてみる回だ。

ちっとばっかし、俺たちが何かをする意味ってのも一緒に考えてみようや。

本物と呼ばれるもの

いつの時代だって、本物ってつの価値は高い。

だが、価値の高いとされるものが「本物」になっていく事実もある。
このあたりは、勝てば官軍みたいなところがあって好きじゃないんだが、事実ではあると思う。

世界的に見て「ジャングル大帝」と「ライオンキング」どちらが本物か。

当然、俺たちは「ジャングル大帝」が本物だと知っている。

であっても、世界的には「ライオンキング」を本物と思っている人が大多数だろう。

それでも「ジャングル大帝」を本物として認識し、その素晴らしさを語れること。そのことには意味がある。

手塚治虫という本物を知っていることに価値がある。

そこにしか無いもの。それを感じ、語ること。

本物に触れるってことはそういうことなんだろう。

本物に触れるリスク

本物には価値がある。

と、同時に本物に触れるってことはリスクを伴うことでもある。

どう言うことかって?

本物に触れることによって、俺たちはその価値ってやつに盲目的に成らざるを得ないことが多い。
そもそもそれだけの価値を含んでいるからこその本物だからね。

特定の価値に盲目的になるってことは、それ以外の価値を否定するってことにつながる。

さっきの例で言えば、ジャングル大帝の原作のラストをあんたは知っているかい?

主人公のレオは雪山で人間たちと遭難してしまう。

助からないことを確信したレオは人間たちに自分を殺して食べるように言う。
そして、人間は生き延びる。

この事の意味ってやつを考えれば考える程、「本物」としての価値が高まっていく。

そして、その価値に囚われてしまった俺たちはライオンキングのラストの予定調和っぷりが鼻についてしまい、ライオンキングに価値を見いだせなくなってしまう。

そう、本物に触れるってことはその他の価値を捨てるってことなんだ。

言い換えれば本物でなければ満足できない体になってしまう。それほどの魔力が本物にはあるってことだよな。

本物に触れるリスクを犯す意味

じゃあ、俺たちは本物になんかこだわることなく、本物の価値なんてものにとらわれずに生きていったほうがいいんだろうか?

俺たちがインターネットのない世界で生きていたときは、それが許されたのかもしれない。
そんなふうに思うんだ。

なんでかって?

インターネットによって、俺たち全員が発信者になったからってのが俺の答えだ。

発信者は世の中に「こんなのオモロイでしょ?」とか「こんなの役に立つでしょ?」とか発信する役割がある。
つまりあえてまとめた言い方をするなら「良いもの」を発信する役割だ。

つまり、俺たちは俺たちの意見を発信する以上は、その発信内容について、少なくとも自分が納得したものを発信する必要がある。

そして、インターネットによって、情報が氾濫している今、本物を見極める目っていうものの価値は、この10年でものすごく大きくなっていると感じる。

あんたはどうだい?

あんたの感じている価値、納得しているかい?



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