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国語教育の課題

あんたは勉強ってことについて考えることなんてあるかい?

オッサンともなると、勉強と言う行為の必要性ってのは理解していたとしても、現実的には日々の雑務と言う免罪符にかまけて、具体的な修行としての学習ってのはしていない事が多いと思うんだよね。

俺みたいに興味の湧いたことをちょいちょい眺めては「こういうことか?」って考えを巡らせるってのももしか「勉強」の一部なのかも知らんけれど、学生の頃にやっていた、あの興味があろうがなかろうが強制的に視野を広げさせられる「学習」って行為とはちと違うよな。

今回は勉強ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちが立っている場所ってのを眺めておこうぜ。


何か成功しているっぽいヒトが言っていた

いつも通りなんとなくネットをうろついていたらこんなのを見つけたんだよね。

はは~ん。
いわゆる義務教育の中でもやるべき勉強と、そんなに力を入れんでも体制に影響ないぜって勉強があるってことなのかな?

詳しくはこの記事を読んでみてほしいけれど、結論だけ言えば数学と英語はやっとけってことなんだそうだ。

なるほどね。と思いつつ、違和感もある。

国語いらないの?ってね。

俺の感覚だと、国語を理解していないと、そもそも他の教科で「何を問われているのか」ってのを理解できないんじゃないの?って思ったんだよね。

ところが、この記事によると問題は国語で出される設問の内容に問題があるからってことのようなんだよな。

国語教育の目的

まずもってあんたに聞いてみたい。

あんたの直感で国語って何のためにする勉強だと思う?

俺の感覚としては究極的には「相手の言うことを理解し、自分の意見を相手に伝えるため」だと思うんだよ。

その目的のために多くの文章の「定石」みたいなものに触れて、その表現に込められている「常識」を読み取れるように訓練するってのが本来あるべき国語教育なんだと思ったりするんだ。

この「常識」を踏まえた上で、相手の心情だとかを文章でどう表すかと言うのが「文学」ってジャンルの勉強な気がするもんな。

このあたりを極めていくと、ピースの又吉さんみたいな感じになるのかな?

この「渦」シリーズ結構スキでちょいちょい見せてもらっているんだけれど、又吉さんみたいに文章を味わえたらさぞかし世界の奥行きみたいなものを感じられて、大袈裟な言い方になるけれど、世界とより深いところでつながれる気がするんだよな。

国語の学習成果を図る「問」

で、話をもとに戻すけれども、国語の教育の成果を図るテストでは何を求められているのかってことだ。

いわゆる国語のテストの問の内容を眺めてみるとざっくりこんな感じだと思う。

(1) 漢字の読み書きが出来るか
(2) 慣用句の意味を理解出来るか
(3) 作者の意図を読み取れるか

(1)と(2)はいわゆる暗記物の学習だよな。
ある程度は必要な学習だと思う。

それと同時に「憂鬱」だの「薔薇」だのって漢字で書けるって能力がどんだけ必要なんだ?って言われると「読めりゃいいじゃん」って感覚も確かにある。

ぶっちゃけ、小説でもマンガでもなんならビジネス書みたいなものでも、場合によったらネットの文章でも、文章に触れさえしていれば漢字を読むって能力はまあまあついていく気がするんだよね。

特にネットが生活の一部になってからこっち、物理的に読む文章の量は俺がガキンチョの頃とは比較にならない事になっているって感覚はある。

しかも言葉ってのは生き物だからドンドコ新しい言葉が流通していくことになる。

DXだのパーパスだの意味の分からない言葉が日常のニュースの中に断りもなく混ざってくるもんな。
草みたいなネットスラングに至っては、もお何が常識なのかわかんないくらいだ。

なのに国語で教材として扱われている文章の多くは昔からあまり変わっていない印象が強い。
「ごんぎつね」も「スイミー」も「スーホの白い馬」も未だに教材として扱われている。

確かに「生きた文章」を体験するための学習として国語はうまいこと機能できていないようにも見えるんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが相手の言うことを理解し、相手に自分の意見を伝えるための能力を磨くには何をどうすれば良いんだろうな?

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