周囲の期待とのギャップを感じるために必要なこと
あんたも子どもの教育について考えまくっていたりするかい?
我が家の一人息子は俺がどういう言葉をかけてもかけなくても、生きていくための衣食住さえあれば、ぐんぐん育っていく。
その成長は生き物としての成長だから、止めるすべはないし、前倒しで成長させることも出来ない。
でも、「考え方」だったり「意欲」だったりと言ったメンタル部分の成長はキッチリ周りの大人がサポートしてやらないと、体の成長に追いつかないケースってのが普通に起きると思うんだよね。
今回はそんな周りの大人が子どもに対して行うサポートについて考えてみる回だ。
ちっとオッサンの試行錯誤に付き合ってくれよな。
褒めて伸ばすメリデメ
今回この事を考える切っ掛けをくれたnoteがあるんだよね。
こ林さんは今の世の中では「褒めて伸ばす」ってのがちょっと前に比べてもすごく自然に行われる様になってきているって感じているようだ。
俺にとっては息子への教育しか見ていないのでなんとも言えないんだけれども、職場での若手への教育方法について考えると、確かに褒めて伸ばすってアプローチは増えているような気もする。
特にニューノーマルな職場環境では、「叱る」って行為がものすごく難しくなっているような気もするしね。
どうしても文字ベースでのコミュニケーションが増えるから、感情みたいなものを行間から読み取られて、伝えたいことが伝わらないってケースはまだまだあるもんな。
で、こ林さんのnoteでは「褒める」ことのデメリットってやつに触れてくれている。
しかし、逆に褒めすぎてもいけないとも思っている。自分に見合わない評価や期待をされてしまうと、実際自分の発揮できる力との差で、悩んでしまうことになるからだ。
出典:こ林さんのnote
これってそう感じるヒトがいるってのはワリカシ想像に難くない。
周囲の期待と自分の能力のギャップってやつは、大人になってもオッサンになっても変わらず俺たちの周りに空気のようにあるもんだからな。
逆に言えば、このギャップを感じなくなったとき、それがヒトとしての成長が止まったときって思ったほうがいいくらいだ。
子どもの頃は、そのギャップを正確に捉えることが出来ない。
だから「叱る」ことによって、そのギャップをイメージとして捉えることが出来るようにすることを大人はサポートするってのが俺たちオッサンがガキンチョの頃にしてもらった教育だと思う。
「褒める」ことでギャップを感じられる才能
こ林さんはそのギャップを「褒められる」ことで感じたってことらしい。
これって、結構な才能だと思うんだよな。
なぜって?
だって、年齢を重ねれば重ねるほど俺たちオッサンのことを「叱ってくれる」ヒトはいなくなっていくからだ。
あんただって、自分よりも10歳も年上のヒトを「叱る」なんてことデキッコナイスって思うだろ?
俺たちはだから周囲からの「期待」ってのを読み取って、それと自分の現状とのギャップってやつを常に想像し続けて行かないとならないわけだ。
そうしないと、ヒトとしての成長が止まっちまう。
それって、この変化し続ける世の中においては生き残ることがものすごく難しくなってしまうことを意味する。
だからこそ、周囲の「期待」を感じ取れる感性ってのはそれそのものが才能だと思うんだよ。
「褒められる」ことでギャップを感じられるための教育
じゃあ、この「褒められる」ことでギャップを感じられる様になるためには何が必要なんだろう?
シンプルに考えると、こ林さんの言う通り自己肯定感の否定につながってしまいかねない。
大人が子どもを認めつつ、それが自分の現状とのギャップをはらんでいるって感じるために必要なこと。
多分だけれども、ライバルなんじゃないだろうか?
子どもが褒められつつ、その褒められている自分では満足いかなくなる環境って、自分と近い能力を持ちながら「負けたくない」って思えるライバルが必要だと思わないか?
ではそんなライバルをどうやって子どもたちは見つけることが出来るのか?
おそらくは何らかの「戦う場」が必要ってことなのかもしれない。
それがスポーツでもゲームでも勉強でもなんでもいい。
張り合える場がいると思うんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たち大人は子どもたちに戦う場を提供できると思うかい?
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