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会話と記録とコミュニケーション

あんたは自分の無力感ってのを感じることがあるかい?

オッサンともなると自分の対応力のなさに辟易することもしばしばって感じなんだけれど、それでも生きていかないといけないわけだから、どうにかせんといかんわけだよな。

それでもさ。
理解できないことってものすごくあるわけよ。

で、理解できないことをリーダーに言ったりすると、なまじ歳をとってるもんだから、「ああ、このヒトには話してもしょうがないな」ってなっちまう。

今回はオッサンが世間とやり取りするってことを考えてみる回だ。

ちっと、自分が受け入れられない世界観ってのを想像しておこうぜ。

そう言う話になってましたよねって言葉

ぶっちゃけね、俺の記憶力ってのは実に怪しい状況にあると思う。

会話内容をメモしてないとうまいこと経緯を思い出せないこともある。

おそらくは自分が思い出せないだけのケースが多いんだと思うが、そもそもその話あったっけ?ってのが信じられないこともある。

なので、通話によるコミュニケーションよりも、チャットやメールでのやり取りを中心にしていくことを心がけているんだよな。

でも、それでも自分や相手がした会話についてすぐさま検索するってのは実に難しいってのもあるわな。

そうなると、やっぱり自分の記憶ってのを中心に会話せざるを得ない。

で、出てくる言葉。
そう言う話でしたよね?

これさ。
言う方も、言われる方もめちゃくちゃストレスを感じる言葉だと思うんだよな。

だって、言っている方としては自分の言葉が通じていないって意味になるし、言われた方としては自分の理解が足りないって意味になるじゃん。

合意を記録に残す意味

となるとだ。
やっぱり「そう言う話」なるものを言語化して「さっきの話はこう認識してます」ってメールなりなんなりで残しておくって必要があるわけだけれども、これがまた難しい。

まず、議事内容を端的にまとめるのって結構難しいってのがある。

ヒトの会話ってそんなに構造化されてないからね。

思いとか思惑とかそう言う不定形な要素をふんだんに盛り込んで喋るのが普通だ。

なので、会話の直後に相手に自分の解釈結果を伝えても「なんか違う」ってなることもあると思う。

じゃあどうするのか?

すごい消極的なやり方かもしれんけれど、会話によって生じたやるべきことを自分のTODOリストに書き込むってことなんだろうな。

いつ誰との会話でこのTODOが出来たのかってことを含めて書く。

そうしておけば、「あのとき言いましたよね?」の事実確認は出来るようになるってわけだ。

会話をまとめて会話を終わる

とは言えだ。
「あのとき言いましたよね?」に対して「言われていません」では良好なコミュニケーションにはならないってのは火を見るより明らかだ。

たとえ言われていないってのが事実だとしてもね。

より良い方法って何か無いんか?
そう考えてみたとき、昔お客様との打ち合わせでやっていたやり方を思い出した。

打ち合わせの終わりに決まったことを箇条書きのように読み上げて終わるってやつだ。

これをしておくと、議事録がまとめやすくなるし、何より決定事項の合意に対して参加者のイメージを固めやすくなる。
そうするとその後のコミュニケーションがスムーズになるってスンポーだ。

ただ、難しいのがさっきも書いた通り日常の会話ってホント構造化されていない。
お客様との打ち合わせみたいにある程度のストーリーを作り込んだ会話であれば、そのストーリーに従った構造があるから、ある程度まとめやすいんだけれどね。

なので、日常の会話でも「よし、この会話でこれを決めるぞ」って気概をもって会話に臨む感じじゃないと、最後のまとめ会話ってのは至難の業なんだよな。

でもさ。
その気概を持たずしてされる会話って実はあんまり価値を生み出さないって気もするんだよな。

俺もさ。何となく会話して、何となく行動して、何となく結果を出していくなんてことが結構あると思うんだ。

つまりはこうか。

何となく生きてて楽しいか?

今の俺は今までの俺にそう問いかけているってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

構造化されていない会話の海をどうやって渡って行こうか?

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