技と思いと表現と

あんたは職人芸ってやつについて感動を覚えることってあるかい?

多分だけれども、俺たちが知らないだけで世界中に職人芸ってのはあるんだと思うんだ。

で、世界中にあるってことは俺たちの身近なところにも職人芸ってのはあるってことなんだよな。

ある意味では俺もあんたも同じ様に職人って言われることもあるんだと思うんだ。

今回はそんな職人の中から、ある中華屋さんの動画を眺めてみた感想を書いてみようって回だ。

なんつーか、技ってさ。
美しいよな。

大阪の中華屋さんの厨房風景

今回、俺が感銘を受けた動画があるんだよ。

結構長めの動画なんだけれども、ちっと眺めてみる価値はあると思うぜ。

料理が全く出来ない俺にとって、この調理風景はちょっとした驚きを俺に与えてくれたんだ。

なんつーかさ。
全く無駄がない。
中華鍋に次々と放り込まれては、出来上がっていく料理は美しさすら感じる。
しかもそれをいくつも同時にこなされていくのを眺めていると、ヒトはここまで効率化された動きが出来るものなのかって思ったりもする。

鍛錬の賜物ってやつだと思うんだけれど、美しいんだよ。マジで。

極められた技に感じられる美

おそらくだけれども、この極められた技術ってのはどんなジャンルであってもある種の美を感じることが出来る気がするんだ。

それは料理の様に生活に直結しているような技もあるし、絵画のようないわゆる芸術のような技もある。

なんならプログラムだってそうだ。
プログラム組んだことがあるヒトなら同意してもらえることが多いんじゃないかって思うけれど、美しいコーディングってのが世の中にはあるんだよ。

なんつーんだ?
そこにロジックが書かれていることが必然だってことがひと目で分かるコードってさ、一陣の風が吹き抜けたような爽やかさを感じるわけよ。
#伝われ

美の向こうに俺が求めているもの

とは言えだ。
この美ってのが極めて個人的な感情に裏打ちされているものってのも一つの事実なんだと思うんだよね。

つまり、俺が「美」だとか「好ましい」と感じる仕組みが俺の中にあるはずだと思うんだ。

さっきの中華料理店の技とH.R.ギーガーの描き出す絵画と美しいコーディングに共通するものはなんなんだろう?

多分、俺の中でそれらに共通するのは、そこに「思い」が込められている様に俺が感じているってことだ。

中華料理の技は、食べ物って言うメチャクチャ生きることに直結した技で、それ故に、その技の評価ってのは店の売上にも直結していると思う。
何より、自分の料理をうまそうに食べているヒトの姿ってのは、時間という自分の命を使ってでも得たいものだって思うかもしれないって俺は思ってしまう。

ギーガーの絵は本当にヒトの恐怖という根源的な感情に対するアプローチをこれだけストレートに表現したのってすげーって思う。
そこにはヒトが抱く感情を表現したいという思いを感じてしまう。

美しいコーディングは、現実問題「動けば良い」プログラムを美しくしてやりたいというこだわりのようなものを感じる。

な?
全部そのモノを生み出すヒトの思いってやつを俺は感じているってわけだ。

俺の文章への思い

そこではたと考える。

俺の文章は「美しい」か?

日々、なんかしらの文章を書き続けているのには、当然ながら俺の思いってのが込めているつもりになっている。

でもポイントはそこじゃないんだよな。
俺が思いを込めているかは「美しさ」にはつながらない。
俺が思いを「込めているように見えるか」こそが「美しさ」につながるはずだよね。

そう書いちゃうと、テクニック的なことに終止するのはどうなんだって聞こえちゃうと思うんだけれど、要するに俺があんたに「何かを伝えられているか?」ってのが大切だと思うんだよ。

俺がどんだけ思いを込めても伝わらなきゃ意味がないもんな。

だからさ。今日も俺はあんたに問いかけるのさ。

なあ、あんたはどう思う?

俺の表現はあんたに届いているかい?
あんたの表現は誰に届いているんだい?

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