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バケモノの子から学ぶ「自分の根っこ」

あんたはこの週末、どう過ごした?

久しぶりにガッツリ休めたので、なんか見るかと思って、子供と一緒にこの映画を見なおしてみた。

まあ、王道な話なわけだが、ふと気になったことがあった。

一郎彦はどうすればよかったんだ?ってな。

今回は、この闇に落ちてしまった青年に注目して「バケモノの子」を振り返ってみようと思う。
もしまだ、あんたがこの作品を見たことが無いっていうなら、2019/02現在、huluで見ることが出来るから見てみてくれ。

Hulu

バケモノの町に紛れ込んでしまった二人の人間

このバケモノの子では主人公の九太と猪王山(いおうぜん)の息子として育てられた一郎彦という二人の人間が登場する。

九太は幼少期に母親を亡くし、それをきっかけに家を飛び出てその時たまたま人間界に来ていたバケモノの熊徹に拾われる。

方や、一郎彦は赤ん坊の頃に同じくたまたま人間界に来ていたバケモノの猪王山に拾われ、そのままバケモノとして育てられる。

物語の終盤、この二人は全く同じように闇に襲われ、紙一重の差で九太は闇を払い、一郎彦は闇に取り込まれてしまう。

この差がなにによって生じたのか。

アイデンティティの確立

九太と一郎彦の決定的な差の一つに「自分は何者なのか」という所での認識の差が挙げられる。

九太は曲がりなりにも幼少期を人間の世界で過ごしており、自分が人間であることには微塵も疑いを持っていない。
対して一郎彦は猪王山が赤ん坊の頃からバケモノとして育てていたため、バケモノとしての自分の立場と、成長するにしたがって自分が人間であるという事実を物理的に知らされ続ける立場の間で非常に不安定な状況に追い込まれてしまっていた

九太は九太で人間であることをしっかりと認識した上で、自分とは違うバケモノの達の間で振る舞うことに大きな苦労を背負うことになる。
しかし、そのバケモノ達が九太を「人間」ではなく「九太」として受け入れ始めた頃、九太は人間のまま彼らの中に溶け込んでいくことが出来るようになった。

つまり、九太は終始自分が何者なのかについては一切悩んでいないのだ。

その意味で九太のアイデンティティの確立は熊徹に拾われたときにすでに出来上がっていた。
だからこそ、蓮ではなく九太としての暮らしていても彼自身の根っこは揺らぐことがなかったんだろう。

一郎彦の闇を育てたもの

対して一郎彦は赤ん坊の頃から「お前はバケモノ」と言われ続けて育ったにもかかわらず、体は人間であることを否応なく教えてくれる状況が続いた。

猪王山の愛情ゆえの嘘だったわけだが、その愛情が嘘という方法をとった瞬間にその愛情は真っ直ぐには伝わらない

一郎彦からすれば、尊敬する父親の猪王山に嘘をつかれ続けている状況は変わらない。
そして、一郎彦は頭も良い。なぜ猪王山が自分に嘘をついているのかもきちんと理解している。それが猪王山の自分に対する愛情なのだと理解している

だからこそ、その愛情に応えたい。だが、その愛情に応えるには一郎彦はあまりにも孤独だった

弟の次郎丸には相談できない。次郎丸は一郎彦が最もなりたかった「本当のバケモノ」だ。
そして、次郎丸も一郎彦に家族としての無償の愛情を傾けてくれている。その愛情は猪王山が一郎彦に向けている愛情と同じ種類のものだ。
※もっとも次郎丸は一郎彦が人間かどうかはあまり興味が無いようにも見える。人間の九太を一番最初に受け入れたのは、そう言えば次郎丸だもんな

一郎彦は次郎丸の愛情にも応えたい。
それ故に一郎彦は次郎丸に相談はできなかった。

では同じ人間の九太に相談が出来たのか?

それも出来ない。それは自分が人間だと認めることだからだ。
「俺、本当は人間なんだけどどうすれば良いかな?」なんて一郎彦は相談できない。
その言葉を発した瞬間に猪王山の愛情に反旗を翻すことになってしまうからだ。

かくして、一郎彦は誰にも相談できず、その思いを闇の中に溜め込んでいってしまう。

そう、一郎彦の闇を育てたもの。それはコミュニケーションを伴わない家族愛だった

猪王山はなぜ一郎彦に真実を告げなかったのか

結局、猪王山が一郎彦に「お前は人間だが、私の大切な家族だ」としっかりと伝えて育てていれば一郎彦は闇を自分の中で育てずにすんだのだろうか?

結論から言えば、おそらくそうだろう。

そこには次郎丸の存在が大きい。

一郎彦が自分を人間だと認識した上で、バケモノたちの間で暮らしていくことは、おそらく相当のストレスフルな状況だ。

バケモノたちは人間のことを良くは思っていないし、自分自身も人間を良いものだとは思っていない。

そんな中で、「お前は人間だ」と尊敬する父親である猪王山から言われてしまったら、一郎彦は耐えられないんじゃないか?そうあんたは言うかもしれないな。

そこでキーを握るのが次郎丸だ。

次郎丸は良くも悪くもシンプルな実力主義者だ。
相手が忌むべき人間であったとしても、相手が凄ければその色眼鏡を一瞬で取り払う才能がある。

この才能故に、次郎丸の周りには仲間が絶えない。次郎丸はしっかりと猪王山のカリスマを受け継いでいるわけだな。

だが、その次郎丸がいることを理解しながらも猪王山は一郎彦に真実を告げることが出来なかった。
なぜか?

それは猪王山が有能だったからだ。

有能ゆえに誰かに頼れない。
自分がなんとかしなくてはと考えてしまう。

自分が誰かに頼るのは自分を頼ってきた多くの仲間への裏切りになってしまう。
それに猪王山は自分の能力の高さを認識していた。
自分の背中を見せていれば闇を育てることはない。そう確信してしまっていたわけだ。

だが、猪王山には一つ理解できていないことがあった。

アイデンティティが確立できていないということの恐ろしさだ。

おそらく猪王山は幼いときからその能力を発揮して、その能力の研鑽を続けてきたのだろう。
猪王山にはアイデンティティが揺らぐという状態そのものに対して思いを馳せるきっかけすらなかったのだ。

まとめ

このアイデンティティの揺らぎの問題は、グローバル化が進んでいる現代に非常に大きな問題提起をしている。

今までは「自分が日本人だ」なんて、気にする必要はなかった。なにしろ周りには日本人しかおらず、外国人と接する機会もものすごく限定的だったからな。

ところが、グローバル化が進み、いまじゃ同じ仕事場に4割程度の日本国籍外の人々がいるような状況だ。

その中で、俺たちは一郎彦になってはいけない。九太のように世界の中で自分を揺らがせないようにする必要がある。

そして、それは俺たちの下の世代ではより顕著になるだろう。

そのために俺たちは俺たち自身に何をするべきか?

俺たちは下の世代に向けて何をするべきか?

なあ、あんたはどうする?

あんたは、何者なんだい?

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