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自分の闇をさらす発信

あんたもnoteでいろんなヒトの文章を読んだりしているかい?

実に多様なヒトの姿ってのが描き出されているのを見て取れるよな。

シンプルにエッセイとして日々の料理について語ってくれている記事。
風景に感じるものがあって、そのことを写真で残している記事。
子育てでどんなふうなことがあったのかを教えてくれる記事。
部活での研究成果を残した若者の記事。
技術的なトライをして具体的に困ったポイントを教えてくれる記事。
商品紹介のアフィリエイトに特化した記事。

そして

自分の闇の部分をさらけ出す記事。

今回はnoteで自分の闇をさらけ出すってことについて考えてみる回だ。

ちっとその記事を書く気持ちってやつに寄り添ってみようぜ。

自分の中の闇

誰だって生きている以上は自分の価値観に照らして「悪いこと」をやっている部分ってのがあると思う。

それは別に法律違反とかに限ったことじゃなくて、その行為や考え方をしている他のヒトがいたら嫌悪感を抱くだろうってやつ。

例えば、恋人が居るのに浮気しちまうとかって話は聞くじゃんか。
幸いというか、俺の身の回りではそう言うヒトを見たことは無いんだけれどさ。

多分だけれど、その浮気をしているヒト自身でその行為は「悪いこと」に分類されていることだと思う。
でも、そのときに抱いている気持ちの方が強くて「仕方なく」浮気をしているって感じなのかな?

浮気じゃなくても、ダイエット中にケーキ食べちゃったとか、運動不足なのはわかっているけれど運動しようとしないとか、つい感情的にヒトを怒鳴ってしまったとか。

そう言う感じで、自分の中に何らかの闇を抱えているってのは普通のことだと思うわけだ。

闇を公開する気持ち

こっからがちょっと考えないとわからないポイントだ。

なんでそんな他人には知られたくないと思われる様な事を発信するんだろう?

チラホラとそのタイプの記事を見てみると、結構コメントが残っているケースがある。
その多くはその闇に対して共感するってコメントだ。

ははぁん。
これか?

闇ってのは一人で抱えていくには重すぎることもあると思う。
最初に書いた浮気なんてのはその最たる例かも知れない。

つまりは発信することによってある程度の匿名性を担保しつつ共感だけを享受できる可能性を作り込んでいるってことか。

その感覚はわからなくないし、何なら共感もできる。
まあ、俺の場合は闇よりも光を共感したほうが嬉しい気がしちゃうってのもあるけれどね。

闇の共感で得られるもの

で、共感を欲しているという仮定で話を進めてみると、次の疑問が出てくる。

その闇の共感で得られるものってなんだってことだね。

そもそも共感をもらった時点で価値あるものをもらっている状態だとは思う。
でもその共感によって闇が光になることは多分無いよな。

実態としての問題は何一つ解決しないけれど、それでもその共感によって救われた気分になるってことだよな。

つまりは対処療法ってことなのかもしれない。

心が闇の重さに耐えられないとき、その重さを言葉にしてみる。
その言語化という行為だけで、少しその重さが和らぐ。
その上で、もらった共感はさらにその重さを軽くしてくれる。

心の重石さえ取れてしまえば、そこから前になり後ろになり進むことが出来る。
何と言っても、今の現状にいる自分が嫌いなわけだから何よりも必要なことは動き出すことだもんな。

そう考えると、闇をさらした様な記事に対して「それはエゴだよ!」とアムロ・レイばりにコメントを残すのは愚の骨頂ってやつなんだろうなぁ。

中には全く共感できない闇を書いている発信もある。
そう言うやつを読んだときは黙ってその発信を閉じるってのが一番無難ってことなのかもしれない。

共感できない時点で、その先にあるのは罵り合いしかないもんな。

もちろん意見として書かれている記事に違う意見だって「議論」としてコメントするのは良いことだと思った上でね。
なので、この記事にあんたがコメントをくれるのは大歓迎だw

なあ、あんたはどう思う?

闇をさらした記事を俺たちはどんな気持ちで読めば良いと思う?

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