コミュニケーションと意思
あんたにも「強い文章」を読んだ経験ってあるかい?
ここ、noteには実に強い文章が多くあるじゃんか。
そう言う文章は読んだ後になにかがしこりのように自分の中にあることを思い出させてくれる。
今回読んだ強い文章はこれだ。
亜和さんはすごく真面目なお子さんだったようだ。
俺も中学時代に掃除を真面目にしない番格のクラスメートと取っ組み合いの喧嘩になって相手に数針の縫合を余儀なくさせてしまった経験があるので、なんかわかる気がした。
今回は亜和さんの強い文章が俺の中にある何かを感じさせてくれたので、その何かについて考えてみる回だ。
ちっと答えのない感じかもしれんけれど、付き合ってくれよな。
他者との違い
ガキンチョの頃はヒトと違う自分ってやつにある種の陶酔感みたいなものを感じることってあるじゃんか。
ところが、自分一人の能力の限界ってやつをワリカシすんなりと感じることによって、そのヒトと違う自分ってのは、とたんに自分にとっての足かせとして変化する。
そのことを実感するのはヒトによって時期は異なるとは思うけれども、多くのケースでは学生時代にそいつを思い知ることが多いような気がするんだよね。
他者との違いがもたらすデメリットを思い知ることで、俺たちは「どうしたらヒトと融和していけるのか?」ってことに労力を割くようになる。
ところが、その労力ってのは成果を成すとはかぎらないことを亜和さんは教えてくれている。
そもそも、ヒトと融和するってことそのものに才能がいるからだ。
ヒトと融和する才能
そう考えてみると、俺が参加させてもらっている西野亮廣オンラインサロンで交流をもたせてもらったヒトの多くはいわゆる「コミュ力おばけ」なヒトばっかしだ。
しかも、その才能はきっとだけれども、後天的に自分の意思で獲得してきた能力の様に感じられる。
もちろん息をするように自然に身に着けた部分もあるとは思うけれども、コミュニケーションをする「意思」の存在はメチャクチャ感じるんだよね。
わかりやすいところで行けばホームレス小谷さんなんて、ベースの才能はあるにしても、メチャクチャコミュニケーションに対する意思を持っていると思うんだよな。
そう考えると、ヒトと融和する才能に恵まれていないとしても、ヒトとコミュニケーションをする方法は残されているってことになるんだよな。
ではそれはどんな方法なのか?
それが画一的なものなら、こんなに色んなヒトが苦労していないって話なんだよな。
コミュニケーションの入口に必要なもの
でも、そこで諦めたら試合終了だって安西先生も言っていたので、ちっと考えてみようぜ。
おそらくだけれども、コミュ力おばけなヒトたちに例外なく備わっている力がある。
それは「聞く力」だ。
もうちっと言うなら「相手に気持ちよく話をさせる力」だ。
話し上手は聞き上手とはよく言ったもんで、コミュニケーション後にいかにして相手が気分良くいられるかってのが、メチャクチャ重要なんだよな。
じゃあその聞く力ってのはどうやって身につくんだろうか?
どうも調べてみるとコミュニケーションにおける最大のNGは「相手の話を遮ること」なんだそうだ。
相手の話を聞いて「つまりこう言うことだよね」って話をぶった切っちまうことってたしかにあったような気がする。
気をつけないとなぁ。
情報の流通量が多い世界で生きていると、どうしても話を短くする努力ってのは必要に迫られている。
そんな中だからこそ、シンプルに相手の話を聞く努力ってやつに価値が生まれているってことなのかも知れない。
話し方じゃない。
聞き方だったんだね。
ただ、逆に考えるとコミュニケーションがうまく行かないヒトって、自分の中にとどめておけないほどの意思を持っているってことなんだろうな。
※なんか、今回逆に考えてばっかりだけれども。
だとすれば、その意思をコミュニケーションじゃなくて表現に使うと良いのかも知れないな。
例えばnoteとかでも良いから、自分の意思を形にする。
そうすることで別の価値を生み出すのかもしれないぜ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはコミュニケーションの価値が上がり続けている今の世界でどう生きていけば良いんだろうな?
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