ガキンチョの自分を思い返す
あんたはガキンチョの頃に大人とケンカしようとしたことってあるかい?
たぶんだけれど、俺は初めて大人にケンカをしかけたのって中学生の頃だと思う。
感覚的に筋が通らないことを言った先生に向かって「おかしい!」って食って掛かっていった記憶がある。
結果としてはけちょんけちょんに言い負かされたし、結果として権威に屈する形になった記憶があるんだよな。
その時の俺には「通っていない筋」ってのを説明する能力がなかったんだと思う。
もうちっと言うなら、その得体の知れない自分の不快感みたいなものを説明する能力って言ってもいいかもしれない。
今回は自分の感情ってのを言葉にする方法について考えてみる回だ。
感情の言語化。
ちっと方法を考えておこうぜ。
感覚的に許せないこと
現実的にさ。
俺らが生きていく上で直感として許せないことってのがあるじゃん。
眼の前で、仲間が罵倒されていたら、問答無用で不快感が出てくるだろ?
たとえ、その仲間が客観的に見たら非難されて然るべき何かをしでかしていたとしてもだ。
その時に俺らに湧き上がる感情ってのは、もう理屈の外にある何かなんだろうな。
それは仲間が虐げられているってことに対する感情なのかもしれないし、仲間が感じているであろう感情を自分の中に再現した結果なのかもしれない。
ただ、俺たちは大人なので、その感情ってのをストレートに世の中に出すことは許されていない。
なので、俺たちは「理屈」って言うフィルターを経由して「感情」を翻訳しようとし始める。
この作業を経ないと、俺たちは世の中とやり取りする事が出来ないって思ってるじゃん?
なぜ許せないのかって考える
いやぶっちゃけね。
許せないって思ったんなら、その感情をストレートにぶつけるってコミュニケーション方法もあるとは思うんだよ。
実際、ガキンチョの頃はそう言うストレートなやり取りで人間関係ってやつを作り上げてきたってのがあるとは思うからね。
ただ、こうも思う。
あのときの俺の考えを今の俺は納得できるのか?って。
正直、さっき書いた中学の頃の先生に対する怒りみたいな感情の理由を俺は今は説明できない。
その時のケースでは朝の自習時間みたいなところで、クラスでワリカシ自由にガヤガヤしてたんだよ。
俺は真面目にクラスメイトと勉強のことについてあれこれ話してたと思うんだ。
その所に、他のクラスの担任をしている先生が「うるせぇぞ!」って言ってきたから「それは違うでしょ!」って睨み返してボコボコにされた感じ。
俺個人はキッチリ自習していたのに十把一絡げに否定されたのが許せないって言うめちゃくちゃ自分だけの正当性が否定されたってことにセンシティブになってったようなことだったんだろうな。
言い換えるなら俺は実に頭の悪い正義の味方だったってわけだ。
俺が守りたかったもの
中学生の俺が守りたかったものってのはなんなのか?
ぶっちゃけ、自分の正義ってやつだけなんだよな。
しかもその正義ってのを当時の俺は誰かに説明することも出来なかった。
シンプルに自分が否定されたことだけを拒絶したかっただけな気もするしね。
つまり、俺が守りたかったのは俺でしかなかったってわけだ。
その時の俺は今の俺に筋を通すことは出来なかったってことなんだよな。
まあ、中学生のガキンチョがオッサンの俺に筋を通すことは無理ゲーだとは思うんだけれどね。
それでもガキンチョの俺に俺は言いたくなるんだよな。
「おめぇの守りたいもの、他にあったんじゃねぇか?」ってね。
当時のクラスメイトは顔くらいしか思い出せないヒトもいっぱいいるけれど、それでもいいやつがいっぱいいたと思う。
アイツラのことを俺はスキだったと思う。
アイツラを守りたかったんじゃないのか?
俺は俺を守るためだけに戦いを挑んだのか?
だったらさ。
もう少し、戦い方ってのがあったんじゃねぇか?
なあ、あんたはどうだい?
あんたがガキンチョの頃に仕掛けた戦いってのを思い出したりするかい?
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