老害にならないための工夫
あんたは自分が何者なのかってことについて相手の立場に立って考えるきっかけをもったことがあるかい?
俺くらいのオッサンともなると、俺の発言ってやつについて相手が考えることを強制的に考えるように仕向けることがあるんだよな。
そのたびに、俺は思うわけだ。
俺ごときの発言で思考を巡らせる時間の余裕は俺たちにはないだろってさ。
今回は自分の存在感を客観視するってことをあれこれと考えてみる回だ。
ちっと俺自身が世の中のひずみになっているんじゃないかって俺のおののきに付き合ってくれよな。
年齢の持つ存在感
俺自身がワカゾーだった時に諸先輩方をどう見てたのか?
当然ながら人生の先輩であり、かつ仕事を知っているヒトとして畏敬の念をもって接していたと思う。
まあそらそうだよな。
経験値ってのが仕事において重要な要素である以上は、その経験値を自分のものにするためには、そのヒトからじかに情報をゲットするのが一番の近道だ。
さらに言うなら、俺たちは先輩を敬いなさいって世界観の中で育ってきている。
部活にしたって何にしたって、俺たちは無条件で先輩を敬うシステムの中で生き残ってきたってのが現実だ。
最近の若者はどうかは知らないんだけれども、この辺りの仕組みが変わったって話は聞かないので、多分同じように育ってきているんだと思う。
で、俺のようなオッサンが発言をするってことが「老害」になりかねないって思っちまうことが最近チラホラあるんだよね。
なんでだって?
誰も俺に「おかしいですよ!」って言わないんだもんよ。
自分の発言のうざったさ
色んな打ち合わせをあんたもしていると思うんだけれど、その打ち合わせでの自分の発言ってやつを自分で振り返ってみたことがあるかい?
ちょっと冷静に考えると、「あの発言は言わなくてよかったよなぁ」ってやつがチラホラあると思うんだ。
その多くが言いたくて言ったことだと思うんだ。
例えば、ある仕事の方針を決めるにあたって、自分が経験した失敗を繰り返したくないから、すごい細かいポイントについてしゃべっちまうことってないか?
なんで俺たちはそのことを言いたくなるんだろう?
基本的に俺たちは相手の経験ってやつを理解しているわけじゃないので、相手がすんなりと俺たちの失敗を繰り返さないで済むって思っていないからなんだろうな。
でも、実際には世の中の変化のスピードから考えると自分の経験で避けられるトラブルってのはたかが知れているってのが現実ってやつだ。
つまり、俺たちは実のところしゃべりたいからしゃべっているってことなんだろう。
そらあ、うざったいわな。
自分が求められる存在であるために
じゃあ、俺のような年齢を重ねてしまったヒトは自由にしゃべることが出来ないのか?
たぶん、それは真実なんだろう。
俺たちはしゃべるだけでうざったくなる存在だって自覚を持っておかないといけない。
じゃあ、俺たちは何も言えない貝になるしかないんだろうか?
そこは違う。
俺たちは自分自身が生きている喜びってやつをかみしめていかないといけないんだから。
その喜びを得るためにはコミュニケーションってのは避けて通れないものだもんな。
でも、年齢という肩書は俺らの発言にうざったさって足かせをはめてしまうんだとしたら俺たちはどうすればいいんだろう?
答えは一つ。
求められるヒトになるしかない。
俺たちが積み重ねてきた経験ってやつをオモロイに変換していくしかない。
そして、変化し続ける世の中にあっては求められることが千変万化していくってことも意識して、自分のオモロイを突き詰めていく。
そうやって、俺たちは自分が求められるって状態を初めて手に入れることが出来るってわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは俺たちがオモロイって感じる感性をどうやって持ち続けることが出来るんだろうな?
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