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俺たちが幸せになるためのモノサシ

あんたは何を目指して働いている?

俺たちは様々な目標ってやつを目指して働いていると思う。
所属するチームの目標。チームを束ねる部の目標。会社の目標。社会の目標。

その中で、一番俺たちに直結しているのが個人の目標ってやつだよな。

でも、考えてみると俺個人の目標ってやつは、とかく希薄になりがちだ。
気がつくとチームだったり会社だったりの目標が俺自身の目標と感じてしまう瞬間が度々ある。

それは俺が俺の目標ってやつを明確に意識できていないからに他ならない。

今回は、俺たちの個人としての目標ってやつを考えてみる回だ。

もしかしたら、俺たちは惰性で働いているだけなのかを考えるってこった。

組織としての目標

組織としての目標ってやつは非常に明確だ。

半期単位に組織としての売上目標だったり利益目標は数値化されて、その数字を実現するための具体的な方策も同時に計画される。

その計画をブレイクダウンしてチームの目標は定められ、より具体的な方法を計画していく。

そうすることで、会社という単位の目標を達成していくというわけだ。

会社が営利組織であれば、営利を目標として定めるのはごく自然というか必然で、そこに疑問の余地はない。

会社の目標には、必然的に売上だったり利益だったりという共通のモノサシがあるってわけだ。

その共通のモノサシは会社の構成員ので共有され、同じ目的に向かって行動することを可能にしている。

個人としての目標

対して、個人の目標ってやつは共通のモノサシってものがない。

充実した人生というものがあったとして、その人生の充実度ってやつは売上や利益のようにわかりやすい指標を立てる事ができない。

例えば、幸福度ランキング一位のフィンランドの一人あたりのGDPは45,703.33USD(2017年)となっている。

対して幸福度ランキング58位の日本の一人あたりのGDPは38,428.10USD(2017年)となっている。

さらに幸福度ランニング19位のアメリカの一人あたりのGDPは59,531.66USD(2017年)となっている。

確かに日本の一人あたりGDPはフィンランドよりも下になっているが、一人あたりGDPが上になっているアメリカでもフィンランドの下位に甘んじていることが見て取れる。

幸福度というのも、正確に俺たちの幸せを指標化出来ているのかというと、四苦八苦してなんとか数字にしているという印象を拭いきれない。

幸福度というのは国連が定めた方法で調査されているんだが、その調査概要はこんな感じだ。

各国の国民に「どれくらい幸せと感じているか」を評価してもらった調査に加えて、GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計る。
出展:https://www.huffingtonpost.jp/entry/world-happiness-ranking-2019_jp_5c906a19e4b071a25a85e44c

この中で、客観的に使える数字といえばGDPと平均余命くらいだよな。

寛大さを数字にしているって言ったって、それには俺たちの感覚や表現能力に大きく依存してしまうもんだ。

その曖昧さという事実が見せてくれる一つの事実がある。

つまり、冒頭に言ったとおり俺たちは俺たち自身の目標を他人と共有するモノサシが無いってことだ。

共通のモノサシが無いってことは、俺たちは俺たちの目標を客観的に評価するすべがないことを意味している。

例えば、年初に俺たちは今年の目標なんてものを立てたりするよな。

でもその目標ってやつが出来たかどうかって評価するのは意外に難しい。

「今年は勉強を頑張る」って目標を立てたとしても、何を持って頑張ったと言えるのか、何を持って勉強をしたということになるのかってのは客観的に評価出来るものじゃない。

「今年は〇〇円儲ける」って目標を立てたとして、それが個人の目標として納得できるものかっていうと、そこになんとも言えない違和感が伴う。

俺たちは、俺たち以外に把握できる目標ってやつをすんなり受け入れることが出来ないらしい。

じゃあ、どうするのか?

俺たちはそれでも目標に向かっていく必要がある。

目標って目印が無いと、俺たちはなんとなく日々を過ごしてしまう。それは命の無駄遣い以外の何物でもない。

できるだけ客観的に把握出来る目標を腹落ちするための工夫をしていかなきゃいけない。

そのために必要なのは、数字の向こうにある自分の感覚なんだろう。

俺たちが求める感覚。その手前にある数字。

それを形にしていくことが俺たちに残された方法ってことなんだろう。

あんたはどうだい?

あんたの感覚、数字に落とし込めそうかい?

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