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家族の幸せ

あんたも自らの死の後の世界について考えたことがあるかい?

オッサンともなると、死って言葉は中二病的なものではなくて、圧倒的なリアルとして感じられることが多くなる状態だ。

何かが辛くて死んでしまいたいとか、そんな感じの逃げ道としての死ではなくて、避けがたい、いずれはたどり着いてしまう死。

いつかは死ぬって遠い未来の話ではなく、今ここで起きてもおかしくない死。

恐ろしく、悲しく、そして安らぎも感じる死。

今回は必ず俺たちに降り掛かってくる死について考えてみる回だ。

まあ、あれだ。
しっかり準備していこうぜ。

自分が死んだ後に起きることを想定する

自分が死んだ後、まず家族は何に困るだろうか?

住宅ローンはちゃらになるから、特に問題はないだろう。
一番インパクトが有るのは俺の収入が無くなるってことだよな。

今の所、共働きでしのいでいるけれども、住宅ローンは無くなるとは言えその他諸々の費用捻出ができなくなるのは厳しい。

特に息子の習い事の費用なんて捻出できなくなると思うんだよな。

食生活はある程度妻の収入で維持できたとしても、息子の生きる能力を育てる部分への投資が出来ないのはいかにもまずい。

となると、息子には自らで自らを変革する経験を積ませてあげることが急務なんだよな。

息子が自らを育てたいって思う経験

じゃあ、どうすればそんな風に自分を変えていく必要性ってのを息子は実感できるのか?

多分理想的なのはこんなやり方なんだとは思うんだ。

前にもちょっと触れたことがあると思うんだけれども、佐藤さんのところでは息子さんにコーヒーショップを家庭内で起業させて、そこで様々な工夫を経験させているんだそうだ。
いや、これスゴくね?

実際にリスクを取ってリターンを得るって経験を子どものうちに得られるってものすごいことだと思う。

息子にもやってみてもらいたいとは思うけれども、何よりすごいのが子どもに好奇心ってやつをキッチリわかせているってところだと思うんだよね。

なんで俺は息子のこう言う好奇心を刺激できていないんだろう?

俺自身の好奇心

コイツは俺自身の好奇心についてうまいこと息子に伝えられていないってことなんだろうな。

俺自身、日々色んな事を考えてはいるものの、考えていることを小学生にわかるように伝える努力をしているかって言うと、そいつははなはだ疑問ってやつだ。

息子は息子で日々の学習やら習い事やらに時間を割いていて、俺との会話の時間ってのはひどく限定的だ。

なるほど、今の時点ではあまり俺という個性は息子に伝えられていないってことなのかもしれないな。

息子とのコミュニケーションを振り返る

シンプルに会話する時間を取れていないってのもあるかもしれないけれども、俺の会話のスタイルに課題があるってことかもしれない。

日々、こんなnoteを書いていると、どうしても俺にとって会話ってのが言葉にして相手に説明するってことを意識しがちなんだよな。

これこれこう言う状況があって、それに対してこの理由で判断した結果こうした、みたいな感じ。

必然的に会話相手にもそう言う「説明」を求めてしまっているところはあるかもしれない。

多分子どもにとっては会話ってそう言うものじゃないんだよな。
シンプルに話していて楽しいって経験が積み重なって会話するってことに向かっていけるってのがあると思うんだ。

つまり、あれだ。
今の俺と息子の会話を息子は楽しんでいないってことだな。

家族が大笑いすること

そもそも、俺は家族が大笑いしたことについて、正確には思い出せないんだ。

家族で大笑いしたことがあるのは覚えているんだけれども、みんなで一緒になって大笑いしたのがいつなのか?なんに対して大笑いしていたのかって思い出せないんだよね。

それ以前に自分が大笑いしたことがいつだったかもよく思い出せない。

なんてこった。
俺は自分が何に大笑いできるかすら思いついていないのか。

俺が死んだ後も家族には大笑いできるようになってほしい。
そのためには俺自身が大笑いできるってことを身を以て表現しなきゃだとは思うんだよ。

でもそれがなにかわからない。

なあ、あんたはどう思う?

家族で大笑いできることをどうやって増やしていけば良いんだろう?

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