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デカい言葉の存在

あんたはあんたの手元に流れてくる情報を眺めて何かしらの傾向みたいなものを感じることがあるかい?

いや、なんとなくって感覚でしか無いんだけれどさ。

俺が捕まえている情報の中ででっかくなることが増えてきている感覚があることがあるんだよ。

何がって?

主語がデカくなるってことだ。

やれフェミニズムがどうのこうのだとか、◯◯世代はどうのこうのだとか、シルバー民主主義はどうのこうのだとか、財務真理教のやつらはどうのこうのだとか。

そのどれもコレもが昔からあった言葉だし、今に始まったことではないってのは分かる。

ただね。
これらの主語のデカさってのが、最近やたらと気になっているってのがあるんだよね。

今回はこの主語のデカさってやつについて、俺の感覚をまとめておこうって回だ。

俺たちの多くが発信者であり受信者である現代という時代においてだ。
ちっとこの主語のデカさってことについて考えておこうぜ。

デカイ言葉を使いたくなるとき

うむ?現代ってのが既にデカイ言葉だろって?
ごもっとも。

じゃあ、こいつから考えてみるか。

なんで今、俺は「現代」というデカい主語を使い始めたのか。

薄ぼんやりとだけれども、今この「現代」という言葉を俺が使った意図というか感覚はだ。
あんたの共感を引き出したいって言う思いがあったような気がする。

うん?どういうことだって?

つまり、現代って時代に生きているヒトってのはめちゃくちゃたくさんいるわけじゃん。
で、更に言うならこれを読んでくれるあんたは確実に「現代」を生きているはずだ。

もしか、この記事を10年後に読んでくれるあんたがいるかも知れないけれど、それはその時のあんたにとっての「現代」なわけだ。

つまり俺はこの「現代」という言葉を使うことで、読んでくれるあんたの母数を広げようと無意識のうちに感じていたんだろう。

デカい言葉の功罪

デカい言葉ってのを使うメリットってのはあるのかもしれない。

さっき書いたみたいに対象の母数を増やすことによるメリットってのはその中でもインパクトのある効果かもしらんね。

俺みたいに読んでくれるヒトの裾野を広げたいってこともあるだろうし、何か自分の主張ってのをする時に、その主張に賛同するヒトがこんだけ居ますよっていう裏打ちに使うケースもあるだろう。

権威プロパガンダの一つって要素もあるんだな。そう考えてみると。

※権威プロパガンダ:「◯◯教授はこう言っている」みたいなエラいヒトの言動を後ろ盾に自分の意見を通すやり方

でも、同時にこの母数を増やすってことは同時にデメリットでもあるよな。

例えばフェミニストというデカい母数での話をし始めると、フェミニストという母数に対して、アンチフェミニストって母数はそれなりに多いんだろうって想像がつく。

多くの味方を手に入れるためには同時に多くの敵を作る必要があるってことか。

デカい言葉を使う理由

そんなふうに多くの味方と敵を抱えた言説を展開するのってのは、実にしんどい話だと思う。

特に俺みたいな平和主義者は争いは避けて通りたいもんだもんな。
※臆病者とも言う

それでも、俺たちの中にはさ。
あるじゃんか。
そのデカい言葉に基づいた自分の曲げられない感覚ってのがさ。

男らしくありたい。
女らしくありたい。

そんな時代錯誤とも言えるような感覚が俺たちの中に微塵もないなんて言えないと思うんだよ。

今の若いもんは。
だからロートルは。

そんなレッテルを張るような感覚だって俺たちの何処かにあると思うんだ。

なんでこの感覚はあるんだろう?

思うに、究極的には「ヒトだから」なんだよな。

何?言っている意味がわからんって?

まずさ、ヒトって生き物は誰かと協力することで自然界を生き抜いてきた生き物じゃんか。

個体の持っている能力は他の生物と比べると比較的脆弱だ。

ライオンのように強靭な顎を持っているわけじゃないし、ゾウのような他者を圧倒する大きさを持っているわけでもない。

それでもヒトは集団として協力することで自分たちの力を発展させ、その力をもって、地上に君臨している。

つまりだ。俺たちは生き物として「徒党を組む」ってのがプログラミングされている存在だってことだ。

デカい言葉に俺が反応する理由

そう考えてみると、昔からそう言うデカい言葉での言説が跳梁跋扈していたってのは理にかなっているわけだ。

でね。
じゃあ、なんでここ最近になって俺はこのデカい言葉ってのの存在感を感じているのかって話だよな。

だって昔からあるんだもんよ。デカい言葉で徒党を組むって行為は。

たぶん。たぶんだよ?

ヒトが見えている世界ってのは経験値やら流れてくる情報やらでちっとづつ広がっていくじゃんか。
それは自分の知覚できる世界が広がるってことだから、世界のデカさを実感するってことなんだろう。

で、同時にそれは自分の相対的な小ささってのを感じさせるわけだ。

俺はその自分のちっぽけさに耐えられないって感覚を抱えているんだろうな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこのデカい言葉とどう向き合って行けば良いんだろうな?

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