見出し画像

偽善の意義

あんたは能登半島地震のニュースを毎日どんな気持ちで眺めている?

実に痛ましいニュースが次々と流れてきながらも、どこか気持ちがマヒしてしまってモニタに流れてくる数字だけが目に飛び込んでくる感じがするんだよ。

その数字の1がそのヒトの人生そのものが失われた数字だってのにも関わらずにね。

自分の妻が100時間以上経ってから救助されたということで喜びがあるはずの旦那さんが、それでも自分の娘が亡くなってしまったことによって、残された孫の気持ちを悲しんでいたニュースを見て、俺は悲しい気持ちを抱え続けることが出来ない弱さの塊だなって思ったんだよ。

亡くなられたヒトたちの一人ひとりにその何千、何万倍もの物語がある。

そんなことを感じていたら、ふと別のニュースが見えたんだ。

今回はそのニュースを眺めながら、ヒトの気持ちってやつについて考えてみる回だ。

ちっと、あらためて善悪について考えてみようぜ。


偽善という言葉

そのニュースってのがこれだ。

水戸黄門でおなじみの杉良太郎さんは3.11東日本大震災の時に、現地で炊き出しをしていたんだそうだ。

その時にテレビレポーターのヒトに「売名行為ですか?」って聞かれたんだそうだ。

その質問も相当下品だって思っちまうけれど、それに対して杉良太郎さんはこう答えたそうだ。

「売名に決まってるじゃないですか。あなたも売名でいいからやりなさい」

出展:上記記事

似たようなのでこんなんもXに流れていた。

こっちのがリアルな感じなのかな?

なんかさ。

泣けてこないか?これ。

やらない善よりやる偽善。
そんな言葉を思いつくよな。

かっこいい大人。
立派な大人。

そんな言葉が思い浮かんでくるわけじゃん。

偽善という言葉を通じて、杉良太郎さんの「自分自身を認める」ということに対するこだわりがこの「偽善」という言葉に集約されている気がするんだよね。

偽善が俺たちに投げかける疑問

普段はさ。
俺はこの正義と悪みたいな考え方は好きじゃないんだよ。

だってそうだろう?
正義の名のもとに行われた行為でひどい目にあったヒトの出来事で歴史の教科書はいっぱいだ。

「蒼き清浄なる世界のために!」ってやつだ。
♯歴史じゃない

そんな中でこの杉良太郎さんの「偽善」は何か俺の中の常識に訴えかけてくるものがあるんだ。

「おめえの偽善ってなんだ?」ってさ。

俺は偽善を出来ているか

杉良太郎さんにさ。
言われているわけじゃん。
なにやってんの?って。

目の前にある仕事を何とかするってことが俺にとっての偽善。
多分、俺にとっての精一杯の偽善だ。

俺はその偽善に満足出来ているのか?
俺はその偽善で「立派な大人」として俺のことをほめることが出来るのか?

俺はさ。
きっちり偽善をやっているつもりだったんだよ。

でもさ。
いろんな言い訳が俺にまとわりついて、俺はその偽善すらまともに出来なくなっちまっている気がする。

年齢を重ねて覚えが悪くなっている。
体力が落ちてきていて活動範囲が狭くなっている。

ありとあらゆる言い訳が俺の中にある。

言い訳はいいんだ。
どうだっていいんだ。

俺は偽善すらまともに出来ていないってのが現実。
それをまずは受け止めないとな。

俺は今の俺を「立派なヒト」だと思えない。

やる偽善

やる偽善って言えば、このことを思い出すわけだ。

実に楽しそうに偽善をするからくり。
これは実によく出来た偽善だと思うんだよ。

これとの関わりはわからないんだけれど、こんな風にNPOとしてのゴミ拾いってのもあるらしい。

これさ。
ホント大事なことだと思うんだ。
「自分を立派なヒトだ」って思うことってさ。

しかもそれを楽しんで行える。
これ以上のエンタメってそうはないと思うんだ。

悲劇や困難に向かって笑顔で対応する。

その笑顔が笑顔を呼んで、笑顔が増え続ける。

こんな素敵なことってあるか?

なあ、あんたはどうする?

あんたは今日、どんな偽善をしていこうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?