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ヒトを嫌う理由

あんたには嫌いなヒトっているかい?

前に投稿で俺は嫌いなヒトって思い浮かべられないって書いたんだよ。

でもさ。
ホントか?って改めて考え直してみたわけさ。

そのヒトの言っていることを論理的に考えて感じて考え直して、その上でなおかつ「嫌い」ってことってホントに無いのか?

意見が違うってのとは違うのよ。
ホントシンプルにそのヒトの話している姿とか、描かれている文章だとかが俺の感情を逆なでしてくる感じ。

今回は俺がヒトを嫌いって思うことがあるだろって見直してみる回だ。

ちょっと感情の言語化に付き合ってくれよな。

理由はわからない中で俺を苛つかせた動画

今回このことを考えるキッカケはこの動画からもらったんだよ。

超絶有名人のひろゆきさんの動画だね。

ぶっちゃけて言うと、ひろゆきさんのこの動画で取り上げている内容についてはひろゆきさんの理屈ってそれなりに通っている部分が多いと思う。

もちろん違う意見の部分もあるけれど、いつもオモロイなぁと思って見ているせやろがいおじさんの意見よりも納得感はあった気がするんだ。

テーマは沖縄にアメリカの基地を集中的に押し付けんなって沖縄のヒトがいる。
そして、それに座り込みって手段で抗議しているヒトがいる。
でも、座り込みって言葉がイメージさせる「ずっと座り込んでる」ってやつが実態と違うってのがひろゆきさんの違和感を想起させたってことなのかな。

まあ、そう言う考えは普通にあっておかしくない。

俺個人としては、中国という国がある前提での沖縄という土地の地政学上の意味ってのはでかいと思うから基地があるべきか否かなんて話なら無きゃ沖縄に住むヒトを守れないと思うしね。

俺が嫌悪感を感じた理由

じゃあ、どうして理屈としては間違っているとは思えないような話をしているひろゆきさんに対して俺は嫌悪感を感じているんだろう?

本質がそこじゃないという議論を進めているからか?

多分違う。

論点ずらしって意図的にされるケースもあるけれど、その自分の考えている本質がホントに本質か?って言われたら、そのことを証明することって事実上不可能だと思うしね。

多分だけれどさ。

俺はひろゆきさんの「他者を否定する」という前提での話し方が「嫌い」何だと思う。

何?ならオマイもひろゆきさんを否定しているだろって?
いや、ごもっともなんだけれど、なんかさ。
ひろゆきさんもったいなくないか?

あの論理的思考能力をもってすれば、多くのヒトが抱えている課題の向こう側の解決手段まで意見を共有する(意見を伝えるじゃなくて)ことだって出来るはずだと思うんだよ。

なのにそれをひろゆきさんはしてないように見える。

ただ、「相手に課題がある」ということを押し付けることで終わっているように見える。

そこに嫌悪感を感じているのかもな。
なんで手を抜くのさって。

手を抜く理由を考える

なんでひろゆきさんは「相手と共有する」という努力に対して手を抜いているように見えるんだろう?

たぶん、徹頭徹尾ひろゆきさんは相手の「言葉」だけを取り上げて、「意思」を解釈するって手順を省いているような気がする。

なんつーの?
相手とのインタフェイスが「言葉」でしかなくて、お互いに寄り添う意識という前提がない感じ?

もちろんこれは俺の感覚だけでの話だから何一つひろゆきさんの存在を揺るがす何かにはならないと思う。

その上で、「寄り添う」って感情なくしてヒトは共感って出来ないんじゃないのか?って同時に思う。
「寄り添う」が実現できなきゃ、ヒトの最大の能力である協力って力を使えないのにさ。

と、言いながら、ひろゆきさんほどの御仁が協力の力ってのを把握していない訳がない。

ならなぜ?
ひろゆきさんは他者の力を捨て去るように他者を否定し続けるんだ?

自分の考えと違う誰かの意見に対して「違う」ことを伝えなければいけない義務感?
自分の意見が誰かの意見の否定の上で成立しているゆえのアイデンティティを成立させるため?

これってさ。
俺たち自身に向けられた疑問符じゃないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはなんでどこかの誰かを否定し続けるんだ?

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