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命を考えて伝えること

あんたはペットって飼っていたことがあるかい?

俺の場合、ガキンチョの頃に犬を飼わせてもらっていたことがあったんだよね。
動物病院で里親を探していたので、その犬をもらってきて飼わせてもらっていたんだ。

今思うと、非常に粗雑な飼い方をしていた気がする。
散歩に連れて行っても、結構乱暴にしていた気がするし、餌だって単調な内容になりがちだったと思う。

それでいて、寿命を迎えてその犬が天に召された時には涙が止まらなかった。
我ながら何ていう身勝手さだろう。

今回は生き物を飼うってことについて考えてみる回だ。

ちっと命って存在について考えてみようぜ。

俺たちにとってのペット

今、思い返してみると「なぜペットを飼いたいと思ったのか?」って問にうまく答える事ができないんだ。

シンプルにかわいいからって話だとは思うんだけれども、世の中にかわいいものなんていくらでもいるじゃんか。

なんで生き物なんだって話だよな。

我が家の息子は今の所はなにかの生き物を飼いたいって言い出していない。
親から特に生き物を飼うことの大変さを伝えているつもりはないので、本当に興味がないんだろう。

子どもにとってペットってのは自分よりも弱い存在だ。
その弱い存在を守りたいって言う感情は本能的なものもあるような気がする。

現状、息子は自らを弱い存在だと認識しているがゆえに、他者を守りたいという欲求につながっていないってところなのかもな。

ただ、何かを守り育てるって経験は子どもにとってメチャクチャ貴重な体験だとは思うんだ。
その守るべき命がほぼ確実に自分の目の前で失われていくって経験に耐えることが出来るのであればだけれどもね。

命を扱う仕事

そう考えると、医療現場で働くヒトも愛玩動物を扱う仕事をしているヒトも経済動物を扱う仕事をするヒトも命を扱っているって意味では共通しているわけだよな。

ヒトと動物の命を同じ様に語るなって話があるかも知れないけれども、命ってものについて考えるときには、いったん同じテーブルに上げるって意味はある気がするんだよ。

同じテーブルにあげてみるとヒトの命は無条件で延ばしていくことが求められ、経済動物の命は奪うことを前提に扱われている。
そして愛玩動物は子どものころに飼手が現れなければ「処分」される。

こう考えてみると、俺たちにとって命ってのは本当に日常の一部に溶け込んでいて、その意味について考えることそのものが少なくなっているって現実が見えると思うんだよね。

命を考える

その状況を踏まえて、あえて命について考えることが俺たちに出来るんだろうか?
ってか命について考える必要が俺たちにはあるんだろうか?

そりゃ間違いなくあると思うわけだ。

いつかは俺たちが失うことが決まっているもの。
それについて考えていくことは、俺たちがどう生きていくのかってことを決めるのに不可避だと思うからね。

でも大人だってその命について回答なんて出せるもんじゃない。
その上で子どもたちに「命を考えろ」って言っても説得力がないんだよな。

でも子どもたちが命について考える切っ掛けってのは必要だとして、俺たちはどうやればその必要性を伝えることが出来るんだろう?

やっぱり現実に起きている、もしくは起きていた出来事について触れる機会を増やしていくってのが一つの答えってことになるのかもな。

今この瞬間に起きている命の選別という医療現場。
かつて文字通り命を使って戦争を行っていた先達。
世界中で起きている命の危機。

そう言う現実を子どもたちにわかりやすく伝えていく。
これが大人に求められている責務ってやつなのかもしれない。

ただなぁ、このわかりやすくってのが実に難しい。

目の前で命が散っていく経験をペットという家族で経験することと同等にわかりやすく命を伝えることなんてどうやって行けばいいんだ?

難しすぎね?

そうなんだよ。個人の力だけで子どもたちに命の意味なんてテーマを伝えるのには限界がある。

ならどうするか?
物語の力を使っていくしかないんじゃないだろうか?

世の中には実に多くの物語がある。
そしてその物語の多くは命の使い方を表現している。

その物語の先に現実がある。
そのことを子どもたちに伝えていくのが良いのかも知れないな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは命の意味ってやつをきちんと考えた上での感情を子どもたちに伝えていくことが出来るんだろうか?

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