辛さの向こう側にある楽しみ
あんたはラマダンって聞いたことがあるかい?
イスラム教の義務の一つで、日の出から日没の間は飲み食いをしてはいけませんって教えだ。
この断食ってやつが俺たちにもたらしている印象ってどんなのだろうな?
辛い?苦しい?まあそんなところだろう。
でも実際は、日没以降の食事ってのにすごい喜びを見出していて、お祭り騒ぎになっているってことなんだってさ。
なんかこの辛さの向こうの楽しみってやつが、俺たちの生活にも応用できる気がするよな。
今回は、この辛さの向こうの楽しみってやつを考えてみる回だ。
日々の辛さを楽しみに変えていけたら、幸せだもんな。
ラマダンの過ごされ方
まずはラマダンってやつがどんなものなのかを調べてみた。例によってWikipediaだ。
ムスリムは日の出から日没にかけて、一切の飲食を断つことにより、空腹や自己犠牲を経験し、飢えた人や平等への共感を育むことを重視する。また共に苦しい体験を分かち合うことで、ムスリム同士の連帯感は強まり、多くの寄付や施しが行われる。
断食中は、飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などの忌避されるべきことや、喫煙や性交渉などの欲も断つことにより、自身を清めてイスラム教の信仰心を強める。
出展:Wikipedia
喫煙も駄目なんだね。
つまりは禁欲をすることで自身を清めるというのが宗教的な意味合いなんだな。
でも、実際には日没後の人々の動きってのが俺の関心をひきつけている。
この断食明けの食事のことを「イフタール」と言うらしい。
このイフタールは、実に多くの喜びに満ちている。断食明けの食事は普段の食事に比べて非常に美味しく感じるもののようだ。
俺もダイエットで、ほとんどなんも食べないようなときもあった。その時の数少ない食事は、確かに粗食であっても美味しく感じた記憶がある。
普段は、食事なんてものにほとんど関心がない俺でもそんな感じになる。
人の感覚は、そんなふうに何かとのギャップで刺激されるわけだから、断食によって食事をより楽しむってのは理にかなっているよな。
ラマダンの場合は、飲むこともNGなので、最初の一杯は減量明けのボクサーみたいな感覚を味わえるのかもしれないな。
エジプトみたいな過酷な気候で水も飲めないってのは、なんとも壮絶だとは思うけどね。
俺たちの生活での辛さ
俺たちの生活でも、日々何かとつらい思いをあんたもしているんだと思う。
仕事のこと。家庭のこと。将来のこと。
悩みや辛さは枚挙にいとまがない。
「なんで俺だけ」なんて思っちまうことも多々あるよな。
そこで、このラマダンってやつを思い出してみる。
今、辛いのはその後の楽しさのためのバネなんだ。
そう思うと、割とすんなりいろんなことを受け止められる気がするんだよな。
俺たちの感覚は物事のギャップを捉えているだけなのは、仕組み上しょうがない。
いつも絶対的な感覚で物事を捉えていたら、俺たちはきっと保たない。
その意味では神様に感謝だな。俺たちは、俺たちが生きていくのに十分な「鈍感さ」を与えてもらっているってわけだからな。
その鈍感さを前提に今の辛さを楽しむ。
そんな生き方もありなのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、ラマダンの「楽しみ」を俺たちの生活に見出すことが出来るだろうか?
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