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映画えんとつ町のプペルへの不満

あんたも映画えんとつ町のプペルを見たかい?

あのアニメーション映画は結構な表現的な挑戦をしながらも、基本をキッチリと踏襲した良い作品だと思うんだよ。

前回はその良い部分についてフォーカスを当てながら振り返りのnoteを書かせてもらったんだよね。

良い作品だとは思うんだけれども、俺の中でこの映画を見た後味ってのが、非常に良くないって感じたのも事実なんだよね。

今回は、映画えんとつ町のプペルに対して俺が感じた不満ってやつを振り返ってみる回だ。

ちっと、アニメオタクオッサンの感想に付き合ってくれよな。

ルビッチは正しかったのか?

映画を見終わって最初に思ったのが、「それで良いのか?」って思いだった。

物語は同調圧力が渦巻くえんとつ町において、夢を見ることを諦めなかった少年の物語だ。
それは良い。っていうか、それは今の世の中に必要なテーマだと俺は思う。

実際、夢を貫いたルビッチの姿は、物語としてのカタルシスを十分に描いてもらっていたとは思うんだ。

でもさ。
ルビッチの行動って誰かを幸せにしているんだろうか?

映画えんとつ町のプペルでは、えんとつ町がなぜ閉鎖空間になっているのか、という理由に言及している。

詳しくはこのnoteでも書いてみているので、あわせて読んでみてくれよな。

一言で言えば、富の再分配っていう政治の役割を最大限効率化するために鎖国して、外界の存在そのものを隠蔽したって感じだな。

要するに貧富の格差っていう社会にとって解決すべき課題に対応するための苦肉の策だったわけだ。

つまりは、えんとつ町の同調圧力にはキッチリと理由があったわけだ。

なので、その同調圧力の象徴である異端審問官の中で、個人の利益のために動いているヒトは誰一人描かれていない。

国の支配者であるレター15世も影の独裁者という役割名まで与えられているトシアキですら、見る限り個人ではなく「公」のために動いている。

でだよ。
ルビッチは結果としてその他とは交わらないで生きるって先人の選択をぶち壊している。
それが住民の選択なんだから良いだろって?
ルビッチはそんな事を住民に問うことはしていない。
星がないってことを「誰か見たのかよ!」と問いかけたに過ぎない。

おそらく物語の終盤に至っても、自分のしたことの意味、すなわち貧富の格差が渦巻く世界にえんとつ町の人々が巻き込まれていく未来ってものに思いを馳せてはいない。
子どもが持つ純粋さと言えばそうなのかもしれないが、この覚悟なき純粋さというのがオッサンの俺としてはものすごく気になったんだよ。

オマイの夢は誰かの犠牲を伴うことを考えないでも良いくらい夢ってのは大切なのかよってさ。
エゴだよ、それは!ってアムロに言われるやつじゃんか?それ。

「友達」のプペルの個性の価値

もう一個デッカイ不満がある。
ある意味、こっちの不満は物語のテーマに関わりかねない不満だ。

それはプペルの退場シーンに現れる。

プペルは最後の最後にルビッチの父親であるブルーノの意識を「取り戻して」ルビッチとの会話をする。
ルビッチは父親との会話を経て、父親ブルーノとの再度の別れを経験することになる。

ここに超絶違和感を覚えるのは俺だけか?

いやいやいや、プペルどうしたよ?
ブレスレットをごみ溜から毎日必死になって探したのはブルーノじゃなくてプペルだろ?
ルビッチの友達として寄り添っていたのはプペルだろ?
ルビッチを否定されて必死になってルビッチの夢を語ったのはプペルだろ!!

そのプペルを置き去りにして、その魂の部分であるブルーノだけにフォーカスを当てるのはどうなんだ?
結局ルビッチはプペルとはお別れもしてないんだぞ。
ブルーノとのお別れは出来たとしても、プペルの立場で考えたらあんまりじゃないか。

この物語は親子の絆は友人との絆よりも近いってテーマだったか?
違うだろ!?
夢を追い続けることの価値を描く物語だろう?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの物語から何を受け取るべきだと思う?

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