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認識と理由と説明と

あんたは直接の会話をする相手が展開する理屈が理屈になっていないって感じたことってあるかい?

多分だけれども、俺自身も理屈にならない理屈っぽい何かを使って会話していたことってあると思うんだ。

で、当然そう言う理屈は「屁理屈」のレッテルを貼られてその時点で議論なんてものが成立出来ない状態になる。

しかもその時点で「屁理屈」だという事は現実としては捉えてなかったんだよな。俺は。
でも確かに「屁理屈」ってのは存在していて、その場にいる俺以外のヒトはそのことを確信していたときもあったと思うんだ。

今回は自分の理屈が「屁理屈」になっているってことが理解できるものなのかってのを考えてみる回だ。

ちっと自分の意見がどう捉えられているのかって客観的に見る方法があり得るのかって一緒に考えてみようぜ。

議論になってない会話

今回、この自分の理屈が相手に通じないってことについて考えてみるキッカケをくれたのはこの動画なんだ。

AbemaPrimeで放送されていた、洞口区議を交えた安倍元首相の国葬の必然性についての議論だ。

結構なヒトがこの安倍元首相の国葬をするってことに対して疑問を投げかけているってのは見聞きしている。
俺自身は、「どっちでも良いから、そんなことで国会議員の議論の時間を使わないほうが良い」って意見なんだけれどね。

それでなんとなくこの動画を眺めていたら、びっくりするくらいに理解できない話が出てたんだ。

曰く、安倍元首相の国葬は中国への侵略戦争につながる。

……ほへ?
どゆこと?

安倍元首相の政策うんぬんと言うよりは、今の政権が行っている政策に対して、実に多くの想像を働かせた結果、日本が中国に侵略戦争をけしかける準備をしていて、核武装を日本政府が計画しているということまで言っていたんだよな。

しかも喋り方を見ていると、そう言う考えを誰かに言わされているって感じはしなかったんだ。
本気の本気で日本が侵略戦争を仕掛ける準備をしているって思っている様に俺には見えたんだよね。

その場でも同じ様な感覚を他の論者のヒトたちも感じたみたいに見えた。

ぶっちゃけ、洞口区議のことがかわいそうになってきちゃうくらいに、論理的に追い詰められている姿がそこにあったように感じたんだ。

問題点を考えてみる

洞口区議の「日本が侵略戦争を計画していて、そのための核武装も計画がある」という認識と、俺たちの認識する現実とのギャップってのが相当隔たっているということを一旦脇において考えてみる。

それでも、俺の感想としては洞口区議に対して「話が通じる」という感覚を持てなかった。

言い換えれば洞口区議の話が俺にとって「屁理屈」に聞こえたってことなんだと思うんだ。

なぜか?

多分、俺の中での本質は2つの全く関連性が感じられない事柄に対して、結びつける表現をしておいて、その結びつけるための理屈が結構でっかく欠落していたから何だと思うんだ。

本来、安倍元首相の国葬実施と中国への侵略戦争って何一つ関係ないと思うヒトが多いと思う。

でも洞口区議はその2つを関連があるという主張を展開していた。

ってなると、「ほう、それはどういうつながりがあるの?」ってみんな思うわけだけれども、動画の中ではその「中国への侵略戦争」って言葉が強すぎてそのつながりについてのところまで話が行かないで終わってしまっている。

そらそうだ。「中国への侵略戦争」なんてものが現実に起きうるという認識に対する違和感がでかすぎる。

正直、つながりの説明をする前につながる先が理解できなかったら、つながりについて説明するのって多分不可能だと思うしね。

で、当然その違和感を理解するために洞口区議に質問を色んなヒトが投げかけていたんだけれど、洞口区議は一貫して「私達が調べたから事実なんだ」という主張だったように見えたんだ。

多分ここに俺の感覚で言う「屁理屈」の要素が集中していると思うのよ。

なんつーんだ?
「理屈じゃなくて私を信じて!」って言ってる感じ。

自分の主張に対して、理由を積み上げることなく、自分が信じているんだからそれを信じてと言う感じ。

そして、自分がそのことを信じるに至った理由も明確に言語化出来ていない感じ。

理由の言語化の難しさ

でもだよ。

改めて考えてみると、俺たちも自分が信じていることをすべて言語化できてるんだっけ?

例えば国。
国ってものは法律や組織によって定義されるものだけれども、物理的に何か存在しているものではない。

日本という国を定義する法律や組織があるし、そもそも身近な共同体が緩やかに広がっていった結果として日本という国があると俺たちは疑うことすらない。

じゃあ、俺たちは日本がホントにあるのか?という疑問に対して「ある」ということを理屈で説明出来るんだろうか?
日本を定義する法律も組織も「それがある」と言う認識を持ったヒトがその認識のもとに作っただけのもので、それは洞口区議の「私達が調べた」と何が違うのか?

結構考えたけれど、これを言語化するのって至難の業な気もしてくる。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが決定的に認識が違うヒトと話をするためには何が必要なんだと思う?

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