俺たちが生きるのは「現場」か「管理」か?
あんたは「うしおととら」って漫画知っているよな?
言わずもがなの名作少年漫画。藤田和日郎の出世作。数々の名言と数々の感動を与えてくれる名作中の名作だと俺は思うんだ。
今回はそんなうしおととらのセリフの中から一つのセリフを掘り下げて、その上で俺たちのことを考えてみる話だ。
秋葉流という男
今回取り上げるのは秋葉流のこのセリフだ。
「努力」なんてねえ。「達成感」なんぞ感じねえ。負けねえ。悔しいこともねえ。嬉しさもねえ。思い切り何かをすることもねえ。なぜなら、オレは何でもできるから。何でもできるからオレはーーー人生ってやつを………楽しんじゃいけねえのさ。
出展:うしおととら
このセリフにあるとおり、秋葉流は全てに退屈してしまった男だ。すべてできるがゆえに退屈してしまった男。
この物語に最初に触れたときに俺が感じた感想は、悲しい、だった。
秋葉流にはライバルがいなかった。
秋葉流には理解者がいなかった。
秋葉流は孤独だった。と。
秋葉流は非常に高い能力故に、周りと協調して問題に取り組む経験を持てなかった男だ。それ故に、目的や目標というものを本質的に持てない。
これを俺は「悲しい」と感じた。
その時は、な。
秋葉流を縛り付けた「現場」の魔力
今は少し違う感想を持つ。秋葉流は諦められなかったんじゃないかってな。
何をだって?「現場に留まっていること」をさ。
俺たちもある程度オッサンになってくると、現場から多かれ少なかれ離れていくシーンがある。
年齢相応に周りを指導したり計画を立案したりしながら仕事を取り回す役。つまり管理側の仕事ってやつだな。
俺なんかは、この「現場」の魔力ってやつを肌で感じている。
問題解決は計画段階で対応される大局的課題と、現場で対応される緊急課題がある。
大局的課題ってのは人によっては達成感が得にくい。なぜか?計画で対応される課題は、問題として顕在化しないからな。
つまり問題を起こさないってのが計画的課題対応であり、そこには達成感を伴いにくいってわけだな。
そのことを踏まえて、秋葉流のセリフを思い起こしてみよう。
「努力」なんてねえ。「達成感」なんぞ感じねえ。負けねえ。悔しいこともねえ。嬉しさもねえ。思い切り何かをすることもねえ。
このセリフ、明らかに秋葉流は現場を意識している。
決して多くの法力僧を率いて何かを成し遂げるというような組織活動を意識していない。
このセリフは秋葉流が「思い切り何かをする」ことへの憧れとも言える思いが紡ぎ出すセリフだ。
それ故に、秋葉流は「自分が全力を出すこと」という個人の目的を「白面の者を倒す」という組織としての目的よりも上位においたことがわかる。
俺たちが「現場」を選ぶリスク
現場にとどまることはそれほどの魅力がある。
直接自分の活動に対する達成感を重要視する俺のようなタイプは特にそうだ。
中には組織としての活動に実態的な達成イメージを自分の中に鮮やかに作り上げる事ができるやつもいる。
そういうやつは、マネジメント側の人間に早々になるべきだ。そういう奴は偉くなる義務がある。
コレは、良し悪しの問題ではなく、人材としてのタイプの問題だ。
現場向きの人間が、その活躍により管理職になっていくのは日本の組織では普通にあることだ。
だが、その会社に入るときに管理職の仕事がどんな仕事かを理解して会社にはいる新人はそれほど多くない。
つまり、「管理の仕事なんてしたくて会社に入ったわけじゃない」ことが多いんじゃないのか?
その会社の製品やサービスに共感したからこそ、その会社を選んだんじゃないのか?
せめて、マネジメントの資質があれば、その仕事を続けることも出来るだろう。だが、現場の対応力はあってもマネジメントの資質なんてものは、さらなる努力を積んで身につけるしか無いのが実態だ。
それも身につけられるかどうかはその人の資質にかかる部分も多い。
だからこそ、俺たちは自分がどっちのタイプなのかを見極めておくことが大切だと思わないか?
現場の実績だけで管理職になり、その結果、現場の対応力も管理能力も発揮できずに腐っていくやつを俺は何人も見ている。
そんなことで、限りある生命をムダにすることは俺たちには出来ない。
あんたは、どうだい?
あんたは、どこで生きていく?
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