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三日目までの墓の番

マタイ27:62-66

脱出イリュージョン。抜け出すことなど不可能だと思える状況で、そこから抜け出るマジック。

岩を他人が新しくくりぬいた洞窟に入り、外から重い石で蓋をし、さらに、国家権力で封印して兵士の番をつけさせる。その洞窟から抜け出る、という脱出劇が行われました。しかも、洞窟に入る前に、殺されて、死亡が身内によって確認され、そうして洞窟に入れられ――葬られたのでした。

三日目によみがえる、という予告が、半年前から宣言されて。

弟子たちは誰も信じていなかったのですが、敵対する者たちはそれに対処して、絶対にそうはならないような状況を作ります。

イリュージョンの準備は完成します。

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、 「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。

明くる日

「過越の祭」に引き続いて1週間の「種なしパンの祭」となります。その日が、ユダヤ教の安息日と重なっていたのでした。イエス・キリストが十字架にかけられたのは、その「準備の日」だったのです。

「明くる日」、安息日に、祭司長、パリサイ人たちが、総督ピラトの下に集まります。

マタイは回りくどい言い方で「安息日」を言い表していますが、本来、安息日に異邦人の邸宅を訪問するなど、タブー中のタブーだったのでは、と思えます。「準備の日の翌日であったが、その日に」。マタイは、祭司長たちを思いやってこんな表記にしたのでしょうか。

タブーを破ってでも、どうしても気になってしょうがない問題があって、異邦人である総督ピラトのところに彼らはやって来ます。

「あの偽り者」

「あの偽り者」は、イエス・キリスト。弟子たちですら思ってもいなかった「三日目によみがえる」という言葉を、彼らは思いだします。細かなことでも気になると、何かしておかなければ気が済まない、念には念を入れる用意周到ぶりを発揮します。

でも、その用意周到さは、ことごとく裏目に出てしまいます。

ピラトに対して、イエス・キリストを「偽り者」と呼んで出向いた彼らですが、「偽り」とは、何をどう偽ったのでしょうか。キリストではないのに、キリストだと偽った。ユダヤ人の王ではないのにユダヤ人の王だと偽った。

イエスが偽ってそう言っていただけなら、なぜ、ローマ帝国の裁判に訴える必要があったのか。

偽り者扱いをしたかったのが、彼らの本心でした。イエスの悪い印象をピラトに植え付けようと思ったのかもしれませんが、偽っていたのは彼ら自身であったことを、ピラトに告白したようなものです。

「三日目までの墓の番」

「三日目までの墓の番」を彼らは要求します。

弟子たちがイエスの肢体を盗み出しておきながら、空になった墓を指さして、「イエスは本当によみがえった」と言いだされたら、これまで以上に民衆は「あの偽り者」に騙されてしまう、という論でした。

イエス・キリストの弟子たちを買いかぶっていたわけでもなかったでしょう。念には念を入れる、彼らの律義さは、少しの可能性でもあるものを一つずつつぶしていく点で、一貫していました。

ローマ帝国の権威を利用して、弟子たちが絶対に墓に近づかないように、番兵をつけ、墓を封印してもらいます。墓を開ける者も、それを防ぐことができなかった番兵も、死刑です。

そのように、アリが入るすきもないと思えるほどの準備をしたのですが、三日目、墓は空になってしまいました。人間には決してなすことが不可能な状況をセッティングした宗教家こそが、空の墓を見たとき、神の介入を感じることができたはずです。

でも、彼らの反応は、まったく逆に、面目を保つための行動に出ます。自分たちで作り上げた「不可能」という状況の中で、その不可能なことが行われた、と言いふらすことになるのです。封印を施したローマ帝国の面目は全く考えずに。。。

ユダヤ人の公的な記録に書き残されています。この出来事は、確かに起こったのでした。

イリュージョンだったのか、なんだったのか。私たちが問われています。

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