ドリアン・ヒロセ

1980年頃から聖書を読み始め、1990年からキリスト教宣教師としてインドネシアに。 …

ドリアン・ヒロセ

1980年頃から聖書を読み始め、1990年からキリスト教宣教師としてインドネシアに。 ドリアンは味を説明するのは難しい果物。十個食べたら、違う味や香りがあって、その中のどれかは美味しいと感じられるものに当たるのです。一つつまんだだけで終わらず、チョット食べ続けてみてください。

マガジン

  • ローマの日々 [Daily Romans]

    ローマ人への手紙を日々少しずつ、ゆっくり味わい、瞑想する旅をします。

  • ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

    聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。

  • ドリアンのマタイ・ワールド

    マタイ福音書ノートの目次

  • ドリアンのローマ・ノート

    全ての道はローマに通ず。。。新約聖書の最も基本的な教えをまとめて読むとしたら、この一書です。人はどうやって神と共に生きるか。そんなことが本当にできる!と順々にパウロは伝えてくれていると思います。

  • ドリアンのバイブル・ワールド

    世界のロングセラー、ベストセラー、聖書を、日本の外に視点を移して読んでみたら・・・

最近の記事

27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

もし二人の泥棒が互いに悪人呼ばわりして喧嘩していたら、滑稽です。でもそれは自分を悪人だと知られないようにするための演技であるかもしれません。 すべての罪人はそのように仮面を被っている、とパウロは言っているようです。けれども、誰一人として、仮面を被っているからと神のさばきを逃れられることはできません。 しばしば、私たちは他の人よりも良い人間であると認められようと努めているものです。 一体何が目的なのでしょう。 そう認められたほうがずっと得するからでしょうか。でも実際、他

    • (3)ローマ2:1-29 神のさばきと下される刑

      人間どうしでなされる罪の行為について教える宗教、道徳規範は、ややもすれば互いに批判し合うための道具に早変わりしてしまいます。自分が変わるべきところを、相手のあら捜しをし、相手に変化を求めるような人間関係に陥ってしまうのです。人の基準ではなく、神の基準があることを知ることで、誰がより正しいかを競うのではない、いつくしみ深い神の判断を仰ぐ姿勢へと変えられるのでしょう。 27. "互いにさばき合う"という人間の性質 2:1 28. 神のさばきと刑罰を意識して 2:2 29. 神の

      • 26.ローマ1:30-32 死に値する行為

        神の目には、どのような悪行が死に値すると映るのでしょうか。 パウロが記しているこれらのさまざまな「悪行」は、神に反抗した心から生じるもの。その「心」が神に反抗していることは、これらの「悪行」とされる事柄から明らかなのです。 これらは、決して神のいのちにふさわしいものではなく、死に値するのです。 私たちは、日々の生活の中で、言葉や行動において、常に神の御心を求め、神と心を一つにしているでしょうか。あるいは、神の意志をないがしろにしていないでしょうか。 「自分の親」を認め

        • 25.ローマ1:28-29 呪われている思い、してはならない事々

          神の律法は、殺人、姦淫、窃盗などの悪行を禁じています。しかし、罪の問題はもっと深く、罪深い人間の心から生じているのです。人間は「神を知ることに価値を認めなかった」からです。それが「罪」の本質なのです。 私の人生を支配するにふさわしいのは誰? 私の人生を支配するのは私自身でしょう? でも本当は、私たちは神の被造物であり、この神をパートナーとしてともに生きるべき存在なのです。それを、自分の意志が神の意志と違うのでもう神と一緒に生きたいとは思わなくなってしまっているわけです。

        27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

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        記事

          24.ローマ1:25-27 本来の神の愛

          人間が悔い改めない限り、天から啓示される神の怒りはこの世に増大するようです。 神は家庭が壊れるがままに任せ、人間が夫婦関係の重要性に気づかないままに、欲望を追い求め続けるに任せてしまうこともあるのです。 創造主は永遠に賛美されるべきなのに、この世の人間の日常生活では忘れられてしまう現実があります。 夫婦の間でも、お互いに「ほめる」どころか、お互いを責め合う事態に陥ることもあるのと同じかもしれません(創世記3:12)。 人の心の中にある「不満」は、心に神の愛を受け入れな

          24.ローマ1:25-27 本来の神の愛

          23.ローマ1:23-25 神は人間を心の欲望に任せた

          神の怒りが天から現れている。その怒りは、人間が朽ちない神の栄光を、朽ちた人間の姿、すなわち人間自身の欲望に置き換えたからです。 これが人間の罪です。 そして、神は人間に対して次のように行動します:神は、彼らの心の欲望を欺くために彼らを送り込んだ。まるで、間違ったことをすると、その結果で痛い目に遭うまで、そのことに執着する幼い子供に対するように。 人間の問題の核にあるものは、神の力を認めない自分の欲望です。だから、神は、人間に汚れたものを与え、人々が互いの体を汚し合うよう

          23.ローマ1:23-25 神は人間を心の欲望に任せた

          (2) ローマ1:24-32 してはならないことをするに任せた

          神を無視して自分勝手に生きる人間に対する神の怒りは、人間の状態そのものに表されているのでした。 神が、人間をなすがままに任せ、自分の行っていることの実を刈り取ることで、罪を自覚させるためです。 ユダヤ人には神の律法が与えられて、それによって神に対する罪を知ることができたのですが、その律法を知らない異邦人が罪を自覚するには、罪の行為の現実を実感しなければならなかったのでした。 23.神は人間を心の欲望に任せた 1:23-25 24.本来の神の愛 1:25-27 25.呪わ

          (2) ローマ1:24-32 してはならないことをするに任せた

          22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

          偶像とは、人間の欲望を表したものです。さまざまな偶「像」を崇めることは、人間自身の欲望を崇めることなのだ、とパウロは言います。 人間は、神の栄光を、人間自身の考えの結果に置き換えてしまったのでした。 言い換えると、人間は自分の考えだけを崇める者となった、ということです。意識せず、自分を神のようなものとしてしまっているのです。(ピリピ3:19) この世の目に見える物事については、人間はますます知識を積み上げてきています。それを、知恵に満ちてきている、と思うようになったの

          22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

          21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

          万物は神によって創造され、万物は神のもの。 もちろん私たち人間も、のはずです。ところが人間は自分勝手な思いのままに、自分を、そして万物を使ってしまっています。 「このからだは自分のものだ。他の誰も、自分の考えや計画に干渉する権利などない。私が自分ですべきことを、自分のしたいことのように決めていくのだ。もしそれを妨げようとするものがいるなら、たとえそれが神であろうとも、それに対して怒りを向けるのは当たり前のことだ」 結婚も離婚も、子どもたちへの教育も、神の御旨など無関係に

          21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

          20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

          神が人間の不敬虔と不義に対して怒るのは当然のことでしょうか? もし人間が神を全く知らず、そのために無視し続けているだけだとしたら、神の怒りは当然のこととは言えないように思えます。 けれども、人間は神についての知識は持っているはずなのです。というのも、神ご自身がこの世を創造なさった時以来、さまざまな働きを通して人間にご自身を示してきていたからです。 その証拠に、どんな民族にも必ず宗教があります。どんな民族も、神について何らかの知識を持っているのです。 神は全能のおかたで

          20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

          19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

          神の義は福音に啓示されているのに対して、神の怒りは天から啓示されている、とパウロは言います。 神は実に、その愛のうちに、人間と一つになることを願っているのですが、人間の不敬虔と不義の問題のゆえに、そのままでは決して一つにはなれず、人間の祈りもかなえられない状態に陥っているのです。 しばしば聞く言葉に、「神が怒っている」というのがあります。人間は、なぜか神の怒りを知っているのです。 それが、神の怒りが天から啓示されているから。 多くの宗教に、「神」の怒りをなだめることが

          19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

          (1) 神の怒り

          ローマ人への手紙 1章 18-23節 天から啓示されているとパウロが言う神の怒りについて。 自分が罪人だなどとは思えない私たちに、人間の現状を直視させてくれる言葉が続きます。早くやり過ごしたいような気にさせられる個所ですが、自分の本当の姿をしっかり見つめなおす機会を与えてくれる箇所でもあるのです。 でも、さまざまな人間の欲から生じる罪の行為がなぜ人間自身でとどめられないのか、その根源にあるのが、自分を生み出してくれた創造主である神を無視した生き方をしていることなのだ、と

          II-1 すべての人間は罪人

          ローマ人への手紙 1章18節-3章20節 ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、キリストの福音が必要でした。 世界中のどのような民族でもそれぞれに宗教があり、道徳があって、社会が保たれているのですが、それで生活の中になにも問題が起こらないのなら福音は必要なかったでしょう。 人が人に対して犯す罪の根源に神へに対して犯している罪があることからパウロは語り始めます。 そしてどのような道徳規定が存在していたとしても、それ自体には、人から罪を取り除く力はないのです。 (1) 1:1

          II-1 すべての人間は罪人

          第II部 ユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって義とされる

          ローマ人への手紙 1章18節-5章11節 義人は信仰によって生きる、という手紙全体のテーマですが、そもそも、人間は神の目から見て義人と言えるのでしょうか。 ユダヤ人も異邦人も、自分を「罪人」だとは考えてはいなかったのですが、そのどちらにも言い訳ができないような罪の指摘が最初になされます。 さらにその罪人がイエス・キリストの贖罪によって、ただ信仰によって受け入れるだけで義とされることが説かれます。 ここに、パウロは神の愛を見て、人間が神を喜んで生きる源泉を得たのでした。

          第II部 ユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって義とされる

          18.義人は信仰によって生きる 1:17

          すべての信者に与えられた救いとは、単に天国への切符ではなく、神は地上でも福音を信じた一人ひとりと共にいてくださることでした。 神に伴われるにふさわしいのは誰なのか。もちろん「聖徒」です。 聖なる神が罪人と共にいることは不可能です。だからこそ、神ご自身が、ユダヤ人もギリシア人も含めたすべての人の身代金として、御子イエス・キリストをお与えになったのです。 罪人は、神の義に導かれて、信仰から出発しなければ、神によって義とされることはできません。信仰によって人が義とされるのは、

          18.義人は信仰によって生きる 1:17

          17.ローマ・1:15-16 福音は神の力

          パウロがこの手紙を書いたのは、主イエスを信じていない人々に対してだったでしょうか? 神が愛し、聖徒として召された人たちに、でした。 その人々には、福音を伝える必要があったのでしょうか。 パウロが彼らに会いたかった目的は、彼らを強め、彼らの中に実を得ることだった、とありました。この手紙の目的も、彼らが神に救われた者として、神の力の中で本当に生きることができるようにするためです。 彼らは何をもって強められるのでしょうか。福音をより深く理解することです! 魂の救いとは、将来

          17.ローマ・1:15-16 福音は神の力