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君の名は「不思議」。

ここの「君」はプリンス。だから、本当は「きみ、きみ」なんて気軽に声はかけられないんだけれど、向こうから近寄ってきてくれて、会話ができる。

さて、マノアという名の人がいました。子供のない夫婦でした。

主なる神の使いが妻に現れ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられるのです。続けてその御使いは、「その子がペリシテ人からイスラエルを救い始める」と予告します。

そのころ、イスラエル民族は近隣のペリシテ人の支配下に治められていたのです。

妻は夫のマノアに話します。それでマノアは神に祈るのです。

「その神の人をもう一度お遣わし下さい。その子をどのように育てたらいいのか教えてください」

神はその祈りを聞き入れ、もう一度、神の使いが妻に現れるのです。どうして妻にばかり先に現れたんでしょうね。

妻は急いで、マノアを呼びます。そこでマノアは、食事を提供したい、と語ります。しかしその使いは断るのです。そのくだり。

主の使いはマノアに言った。

「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは主に献げなさい。」

マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。そこで、マノアは主の使いに言った。

「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」

主の使いは彼に言った。

「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。

なぜ妻にばかり先に現れていたのか、というと、どうも、このマノア、あんまり信心深くなかったかもしれない。「主の使いであることを知らなかったのである」などとはっきり書かれてしまっています。

私も、仕事が何とかやっていけるのは、妻のおかげ、ということに気づかされる話です。

それにしても、「主の使い」って、ぱっと見には、普通の人と変わらなかったんでしょうかね。

でも、名前は「不思議」。

このエピソードが、とっても面白く感じられるのです。旧約聖書の「士師記」という巻物の、ほぼほぼ最後の時代の出来事。このあと、数十年たって、ダビデ王が登場します。イスラエルを救い始める神の働きが、ここから始まるのです。

生まれてきた男の子は、サムソンと名付けられます。この人の生涯も不思議に満ちています。

ふしぎなキリスト教、という本がありますが、実に、聖書が「不思議」という名の主の使い、いや、実は神のプリンスの記録なのですから、不思議に見えることがあって当然。

プリンスの名は、不思議。


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