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高校生の探求学習のいま

マイプロジェクト福井県summitのサポーターとして参加してきました。

僕はまちづくり系のマイプロジェクト5つを拝見したのですが、探求のレベルがおそろしく高いです。廃校を活用したイベント実施や、廃線危機に瀕した路線の活性化プロジェクトなど、やっていることはよく見るようなものかもしれないけれど、地域の団体と協働し、実際に予算を獲得し、実行し、さらに省察して次のアクションへ…という一連のサイクルが軽々と行われている。

もちろん今日出会ったチームはいずれも県内でも良い評価を獲得したチームなのでしょうからこれが高校生の平均値だとは言ってはいけないのでしょうが、それでも嬉しくなるような一日でした。ありがたいことに、10年後僕の仕事はなさそう。笑 自分がこれからどのような役割を担っていくべきか、考えさせられる豊かな時間でした。

まずは全体をとりまとめた株式会社mumm村上純一郎の偉業に拍手。高校生のみならず、集まる先生、手助けしてくれる大学生への教育的視座、僕らとのネットワーク構築など、全方位的に重要な布石を打ち続けるような仕事をしてくれているなと思いました。

さて、サポーターとの会話も含めて、探求について色々と思うことがあったので、探求における課題点みたいなところを、いくつか覚書程度にメモを残しておきます。

①探求における大人の重要性の高まり

いずれのチームも、多様なアクターと協業していました。市役所はもちろん、地域のコミュニティセンター、まちづくり協議会、JR、公民館、移住者支援組織…などなど。

昔から地方の移住関連文脈のなかでは、「子どもたちに将来地域に帰ってきてもらうには、まだ地域に住んでいる"高校生"までの間に地域とつながってもらうことが重要だ!そこで地域を好きになってもらわなくちゃいけない!」と昔から色んな人が言ってきたわけですが、その意味で探求は、その「地域とつながる」ためのとても重要な入口になってる

それはとても良いこと。だけど、その分はじめてまちへと出ていく高校生に対して、彼らがはじめて出会う僕たち地域の大人の責任がめちゃくちゃ大きくなっていることを強く感じました。僕たちが高校生に前向きな言葉をかけてあげられるか。おもしろいまちだと感じてもらえるか。適切な人材につないであげられるか。もちろんそれをみんなに引き受けろとは言えないし言うべきでもないけれども、それでも探求がひろがっているということ、それと同時に高校生と出会う側の大人たちが果たす役割はとても大きくなっているということは、もっと広く知られていかなくちゃいけないのかなと思いました。これは高校と地域という関係のみならず、探求のテーマが各人に任されている以上、すべての人々に関わってくる問題です。どんな人でも、高校生の探求に巻き込まれる可能性が常にある。

特に実際のところ、ここで最も問われていると僕が思っているのは、「市役所職員の力量」です。残念ながら先生たちは、自分自身がまちづくりをやっているわけでもないし、まちで活動している人々や民間企業とのツテはほとんどないのが現状です。これが問題点であることは間違いないにせよ、これは一朝一夕で解決できる側面ではありません(本来は探究学習の授業プロセス自体も外部のアクターと丁寧に連携していくべきなのですが。例えば東北芸術工科大学などは、中高の探究活動支援をかなり手広く行っています)。

それゆえ先生たちは、「とりあえず市役所」に相談することが必然的に多くなります。このとき市役所の職員が前向きに相談に乗れるか。職員が自分の言葉でしゃべれるか。適切な人材につないであげられるか…。ここでの市役所の役割は見過ごせないものになってくると僕は感じています。

②探求で消費される地方問題

一時期は、「人に会いに行く旅!」などといって、それぞれの地域で積極的に発信する人々のもとへ安易に会いに来まくる人問題が取りざたされたりしたこともありましたが(というか僕がただ怒っていただけですが)、今や高校のある地域が、探求によって「消費される地方」になってしまいかねない雰囲気を感じました。

すでに、探求の時間内にアポとりをしようとするため、いっときに市役所に大量の取材依頼が入って行政機能が停止してしまう、なんて話も聞いたりします。

もう少し言ってしまうならば、当然のことながら高校生による探求がまちでずっと活動してきた人の経験を超えて地域に資するものを提案できることはほとんどないのが実情なわけで。それゆえ、地域でバリバリ活動している人たち、本来高校生のロールモデルになるかもしれない人たちが、探求に時間を取られることを嫌って探求の受け入れを制限する、という事態を、僕はめちゃくちゃリアルに想像することができます。そうなってしまえば、学生の探求に伴走できるのは、時間のある高齢者を中心とした、町内会だとか、まちづくり協議会といったアクターだけになってしまう(こうしたアクターにも若い人やロールモデルになりえる人ももちろんいるのでしょうが)。

これは、少し前の時点ですでに大学生と地域という関係性のなかで起きていたことであって、それが若年化したとも言えるのかも。

③「実践」が先にくる探求をどう扱うか問題

地域に関連する探求は、今回のサミットのなかでもかなり多く見られたものでした。これは先に述べたとおり、自分の住む地域にいる多様なアクターと出会うきっかけとして、非常によい役割を果たしています。

一方でこの問題点は、「自身の問いを深掘りすることを脇において、とりあえずやってみる」という事態があまりに簡単に生じうるという点です。

まちに出れば、課題は無限にあります。町内会の高齢化。地域を代表するスポットや特産品の不在。バス路線の廃線危機。伝統産業の売上減少。移住者と地域住民の軋轢…。まちの人々と協業すると、まちの人々から聞いた言葉を、なるほど、じゃあこれを探求すればいいんだ、と簡単に設定することができてしまいます。

このことの何が問題なのか? ここでの問題点は、こうした「すでにある課題」は「誰かの課題」でしかないということです。本当にその伝統産業に興味があるのか? バス路線は本当に廃線になっちゃいけないのか? 僕はそれに本当に興味はあるのか…? そういうことについての思考を不在にして、「課題なんだから解決すべきだ!」「若いんだし、とりあえずやってみよう!」という論理で(この論理は残念ながらとても強いものです)探求が進んでしまう。

これは難しい。簡単に「地域のため」とか言っちゃうけど、あなたが本当にやりたいことはなんなのだろう?

探求は本来(探求とはなんなのかはよくわかっていないけれど、僕にとっては)自分自身の内的な問いがあって、そこから生まれてくるものであるといいなと思っている。けれども地域には、自分の内的な問いが深まる前に課題が先にある。「やれること」があってしまう。このとき高校生たちは、油断してしまえば、「借り物の問い」を探求してしまうことになるのです。

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まちに出れば課題がある。自分のやりたいことはない、わからない。だから、とりあえずやってみる、という探求が良くも悪くも増えてきている…。とはいえ、僕はこれは必ずしも悪いことじゃないと思っています。高校生たちも、みんなが探求をやりたくてやっているわけじゃない。それゆえ、頻出の問いはこういうものです。

「やりたいことがないけど探求はやらなくちゃいけない。どうやってやりたいことを見つけたらいいんですか?」

この状態は、内省を深めるにも、その内省を深めるためのインプットが足りない、経験が足りない、考えるための素材が足りない、そういう状態なのだということもできます。それゆえ、とりあえずなにかやってみる、というのは、必ずしもベストではないが、少なくとも何もない状態で内省し続けて何も出てこないより、ウン万倍良いことです。

だからこそ、やりたいことがないなら、とりあえず地域に出て、人の借り物の問いを借りて、とりあえずやってみればいい。いわば、探求はいま、それができる状態にまでやってきたのだ、ということもできるのです。

探求はここで、次のフェーズに入っています。

「やりたいことがない人がとりあえずなにかをやってみる」とき、ここで最も重要になるのは、「やった」後のリフレクション(振り返り、省察)です。探求はいま、この「リフレクション」の重要性に気づくフェーズに入ってきている

発表を見ていても、学校のなかに実践のナレッジが蓄積されているのか、実践自体のレベルはみんなかなり高いです。どこで一番大きな差が出ているのかといえば、実践を通じた省察の段階。やりながら、単にやっただけじゃなくて、その実践のなかで思考できているか(ドナルド・ショーン風に言えばreflection-in-action)。その実践のあとに振り返ることができているか(reflection-on-action)。ここでかなりの差が生じていると感じました。

リフレクションという観点から、僕が見ていたチームのなかでも良い例。

地域に未活用の建物があり、そこを活用してイベントをしようと考えた。ひとまず自分たちの関心を持ちよって、自分たちのような若者をターゲットにして、とりあえずイベントをやった。しかし、実際には来たのは子どもたちが多かった。そこで、自分たちが来てくれると思っていた人と、届く層が違うことに気がついた。そこで、自分たちのやりたいことを大事にしつつ、子どもたちに楽しんでもらえることを企画しているところ。もうすぐ第二回目を実施する…。

彼らのなかに内的で個人的で熱狂的な問いがあるかどうかは僕にはわかりません。でも少なくともこのチームは、やってみたで終わりにせず、実践のなかで違和感や葛藤を感じていて、それに対してアクションを起こしている。この違和感や葛藤を感じて、それを明らかにしてなんとかやっていこうとすること、その過程はまさに探求だといえるんじゃないかと。

その意味でいま探求は、「まずはどうやってなにかをやるか」という問いを超えて、そのあとの「どう振り返り、どうそこに問い/違和感/葛藤を見出していくか」という省察が重要視される段階に入っているのかなと感じています。

④探求の「仕事化」問題

探求のなかでは、本当に多様な人々との協働が行われています。そのなかで例えば、

移住者を獲得しようというテーマを立て、移住者獲得用ウェブサイトの問題点を明らかにし、そこから先輩移住者のインタビューや生活を描き出すことが大事だと指摘し、市役所の予算を獲得しました。これから移住者インタビューをして情報発信するところです!!

みたいな探求が生まれてきている。

すごい。確かに大人顔負けの実践力があってすごい。課題設定も打ち手も正しい。けれども、それ、もはや仕事やん、という気にもなってきます。そしてこのような「仕事」のような探求は、僕たちが日々の仕事でやっている通り、自分の問いよりも、クライアントの課題/問い/論理が優先されるのは、私たちがすでによく知っていることです。

③とも絡まる内容ですが、改めて問いたい。そこに、自分自身の問い、自分自身の興味はどこにあるのでしょうか? その問いに答えられないなら、それはおそらく探求ではないのではないか。

そしてここでの問題は、このレベルであれば、本当にちゃんとお金を(多少でも)もらったほうがいい、ということ。

これは大学生と地域との関係のなかで多々言われてきたことではありますが、おそらく探求を通じた高校生の搾取問題、というのが今後多々(すでに?)取りざたされることになるでしょう。高校生を安易な商品開発アイデア搾取に使ってみたり、無料の働き手として扱ってみたり…。地域の人材不足問題やアイデア不足に対して、学校側の「高校生にとりあえずなんかやらせたい」という意志とが結託してしまえば、こうしたことが無批判かつ大規模に行われてしまう可能性があります。

⑤探索型の探求プロセス

おそらく探求は、「まずはじめに問いを設定して…」という、探求の「型」をベースに教えられてしまうことがどうしても多いのだろうと思います。

しかしすでに③で議論したように、「問い」があとから出てくるような探求の形もある(実質的には、その方が多いはず)。そのようななかで、とりあえずやってみる、とりあえず動いてみる、とりあえず話してみる、みたいなことも大事になってくるはずで。このようなプロセス事態を授業のなかで評価できるか?どう評価していくか?そもそも「評価」というものとどう距離を取るか?探求プロセスのなかで、そういったことが問われていくように思われます。

(実際、例えばデザインのことを話せば、ダブルダイヤモンドというプロセスが広く普及していますが、僕自身はダブルダイヤモンドでプロジェクトをしたことはほとんどないし。むしろ、自分の考えていることでさえ、他者と、あるいは実践を通じて明らかになってくるということがあるのだ、いうこともまた、"自分自身のわからなさ"という観点における、私の研究テーマでもあります)

⑥探求の問いの広がり問題

これは安易な話ですが、先生がどんな広がりを出せるかにより、問いのレベル感がどうしても変わってきます。それはすでに指摘した人間関係の限界のみならず、知識としてもそう。おそらくもっと探求はジェンダーの問題など出てきていいはずなのだけど(勝手な想像だけど、東京では多かったりするのではないか)、教師の側が、事例としてフェミニズムやマルチスピーシーズといった視点(もちろん、そういう言葉じゃなくてよくて、「福井の閉塞感」だって同様に良質な問題意識ある問いになるのだが)を持っているかどうかで、学生が見ることのできる幅が決まってきてしまう。

難しいよねこれは…。

最後に

とはいえ全体として言えば、探求、めちゃくちゃ面白いし、未来は明るいんじゃないか、と思わせてくれた。そしてまた、こうして探求の場に僕たちがいることで、大人たちの側こそ、がんばらなくちゃと思えること。それもまたとても大事な相互フィードバックだと思う。

ここにあげたような課題って、まさに探求が広がってるからこそ見えてきているものだし、これは嬉しい課題なんだと思います。

みんなで一緒に探求やっていきましょう

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