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アスタラビスタ 3話 part8 3話完結

 準備体操を終え、道場の隅で防具を付け始めた私は、既に顔から血の気が引いていた。少し身体を動かしただけで、動悸と冷や汗が止まらない。道場の床に座っているというのに、地面が揺れ動いているように感じた。こんな状態で、本当にできるのか。不安が大きく私の心を支配していく。

「そうだ! 雅臣が言ってた『剣道の防具じゃ足りない』って、一体何が足りないんだよ!」

 道場の真ん中にいた圭は、私にではなく向かい側で防具を付けている雅臣に大声で尋ねた。

「紅羽が今付けてんだろ!」

 雅臣に言われた圭は、道場に背を向け、壁へと向かって片膝を着いている私へと近づき、覗き込んできた。

「紅羽、何付けてるんだ? それ」

「スネ当て……」

 乾いた唇で呟く。自分の耳に入ってきた声色も、ひどく乾いていた。私はそれどころじゃなかった。首の血管が大きく跳ね、心臓がうるさい。それに合わせて呼吸が浅く、早くなっていく。

「薙刀は膝から下、スネも有効部位に入る。だから剣道の防具だけじゃできない」

 私と同様に片膝を着いて壁を向き、スネ当てを付けている雅臣が、顔だけをこちらに向けて説明した。   

 雅臣の姿を見て、私は彼が薙刀について、本当に知識があるのだなと思った。薙刀はスネ当てをつけるとき、正面に背を向けて、片足を着ついてつける。雅臣はそれを知っていた。

「そうなのか! 足も攻撃オーケーになったら、守るところ多くて大変だな!」

 私ははっとした。スネ当ての紐を足に巻き、きつく結ぼうとした時だった。六年前までちょうどよかったはずの紐が、結ぼうとした際に大きく余ったのだ。

 自分が痩せてしまったことは十分理解していた。体重の数値でも。だが、それ以上にこうして昔使っていたものが身体に合わなくなると、自分がどれほど変わってしまったのかを実感する。

 普通の、私ぐらいの年齢の女の子なら、痩せたことを喜ぶのかもしれない。しかし、私のこれは喜ぶべきものではない。これは衰弱だ。

 スネ当てを付け終わると、症状はより悪くなっていた。後は面を付けるだけ。そしたら準備は終わりだ。後は戦わなければならない。後はもう、狭い視界に閉じ込められたように、戦わなければいけない。それが怖かった。戦いたくない。苦しいのは嫌いだ。痛いのは嫌いだ。

 症状は激しい吐き気を伴うもので、一瞬、電源が落ちたかのように視界が真っ暗になった。

「……紅羽ちゃん?」

 私のすぐそばにいた清水が、真っ先に私の異変に気がついた。向かい側でスネ当てを付け終わった雅臣も、清水の声に反応し、「どうした?」と立ち上がってこちらへ歩いてきた。

「大丈夫? 苦しいの?」

 清水がしゃがみ込み、私の顔を覗いてきた。

 あぁ、やっぱり、と思った。私が何かしようとすると、やはりこうなるのだ。

 唇がガタガタと震える。全身が痙攣をおこしていた。

「え? ちょ、ちょっと紅羽ちゃん? 大丈夫?」

 私の背中を擦ろうと手を伸ばした清水は、私の全身で激しく脈打つ動悸と痙攣に驚いて手を引っ込めた。

 圭は自分がどうしたらよいか分からず、立ち尽くしたまま動かなかった。

「く、薬」

 震える唇で、私は辛うじて呟いた。稽古着のポケットに入れていた、抗不安薬へと手を伸ばす。

「薬? 薬持ってるの? どこ?」

 清水が私の持ち物へ目を向けながら尋ねてきた。その様子をじっと見ていた雅臣は目を細め、鋭い目つきをした。

「紅羽!」

 大きな声に驚き、私は目の前に立っている雅臣を見上げた。すると彼は、「まだ薬は飲むな」と静かに言った。それに反発したのは私ではなく、清水だった。

「飲んだ方がいいよ! この状態、俺たちが紅羽ちゃんと初めて会った時と同じ状況だ!」

 清水は知らないのだ。きっと彼は、私の飲んでいる薬が身体の薬だと思っている。だから飲む他、術がないと思っているのだ。雅臣は私が精神に対する薬を飲んでいても、嫌がることも軽蔑することもなかった。だがもし、圭や清水が、私の飲んでいる薬が精神のものだと知ったら、果たして雅臣と同じように普通に接してくれるだろうか?

 きっと雅臣は今ここで、彼らに説明するだろう。私の飲んでいる薬は精神に対する薬だと。だから自分で落ち着かせることができれば、必ずしも飲む必要はない、と。

「いいか、紅羽。意志を持て。明確な意志だ。お前の身体を支配しているのは、お前の心臓じゃない。お前の意志だ」

 意志、意志とは一体何だ? 身体でも、精神でもない。

 目標、目的。それが意志か? 精神や心とは、一体何の違いがあるというのだ。

 雅臣が静かに言った。

「お前は、全身体と全精神をかけて、俺をぶっ潰すんだ」

 目標、目的。それは達成すべきもの。そこへ辿り着くまでに、何かを犠牲にしながらも、その一点だけを見つめて前に進む。いわば、希望だ。

「ぶ、ぶっ潰す……?」

 暴れる左胸を押さえ、私は雅臣に聞き返した。

「そうだ。俺をぶっ潰せ」

 そう答えた雅臣は、笑っていた。


 

 私には目標がある。目的がある。その達成のためには、ここで止まるわけにはいかないのだ。

「絶対、ぶっ潰す……」

 私は雅臣を見上げて言った。



 明確な目的、目標。それらへ向かう強い心を、意志と呼ぶのだ。


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