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浜田省吾論②

前回の①に続きまして、浜田省吾論②をお送りします。前回と話が重複する部分がありますがご了承下さいませ。

売れるまでの苦悩

バンド「愛奴」を離れた浜田さんは1976年4月21日、シングル「路地裏の少年」とアルバム「生まれたところを遠く離れて」を同時リリースし、ソロデビューします。「路地裏の少年」は今もなお時折ライブで歌われる曲であり、それはそれは大いに盛り上がる曲です。しかし、リリース当時はヒットとは程遠く、3000枚程度しかプレスされませんでした。アルバムも然り。デビュー曲から売れるということはめったに無いことではありますが、早々に始まる浜田さんの試行錯誤は、他のアーティストよりも深く辛いものだったように思います。

浜田省吾というアーティストの「売り」とは

そもそも、浜田さんのアーティストとしての特長は何でしょうか。今でこそ「社会派ロッカー」とか「愛と青春の浜田省吾」とか、人それぞれに思い描くものはあるでしょうが、共通して言えることは「何かしらのメッセージ」があるということだと思います。

浜田さんがソロになる時、当時のディレクターだった蔭山啓吾氏は「吉田拓郎氏を超えるメロディーで、日本という国や時代を歌う」ということを目指したそうです。それは今にしてみれば、非常に的確に浜田さんの強みを表していると言えるでしょう。しかし、時代が良くなかったのか、あるいは浜田チームが先を行き過ぎていたのか、デビューアルバムは散々なまでに酷評されてしまいます。

「どっと疲れるアルバム」「時代錯誤」「暗い」「重い」など、当時の音楽雑誌は否定的な評論ばかりだったようです。1976年と言えば、洋楽ではEAGLESの「Hotel California」が大ヒットした年です。その曲の中でドン・ヘンリーは「スピリッツは1969年以来切らしております」と歌いました。スピリッツとはウイスキーの銘柄のことですが、ここではダブルミーニングで虚無と絶望にあふれた精神のことも指しています。アメリカはベトナム戦争の後遺症に苦しみ、日本でも激しかった学生運動が沈静し、世に何かを訴えるということ自体が、白々しい作りもののようになってしまっていました。代わりに軽薄なものが好まれ始める、1976年とはそんな時代だったようです。

試行錯誤の始まり

ファーストアルバムが全く売れなかったことにより、次のアルバムから試行錯誤が始まります。1977年5月21日発売の「ラブトレイン」、1978年9月21日発売の「イルミネーション」、1979年5月21日発売の「マインドスクリーン」は、浜田さんにとってとても辛い時期だったのではないでしょうか。

浜田さんのメロディーメーカーとしての才能が買われ、ホリプロの歌手達に楽曲を提供していたお話は前回しましたが、ファーストアルバムのセールス不振を取り返すべくスタッフ達が考えたのは、「都会派ポップ路線」ということでした。メロディーメーカーとしては優れているのだから、とにかくまず売れるためにキャッチーな曲で勝負しよう、そのためには今までのような路線ではダメだ!ということになり、セカンドアルバム「ラブトレイン」では、突然ジャケットから軽めになってしまいます。サングラスとラガーシャツ、サッカーパンツにテニスシューズを履いた笑顔の青年、それがセカンドアルバムのジャケットでした。浜田さん本人の言葉を借りれば、「こいつは一体何のスポーツをやっているんだ!」というものです(笑)。しかしそれも流行りものを詰め込んだ試行錯誤の産物であり、スタッフも含めてとにかく何らかの結果を出さなければ明日は無い、という感じだったのでしょう。

セカンドアルバムのレコーディング時には、その後録音され代表曲のひとつになる「19のままさ」や「遠くへ」が既に作られておりましたが、それらは1枚目の延長線上の曲だと判断され、レコーディングは叶いませんでした。
そんな風に強制的に路線の変更を余儀なくされ、浜田さんは都会的なポップスを歌わなくてはならなくなってしまったのです。

そしてその反動は、浜田さん自身に返ってきます。曲は何とか作れていたものの、詞が全く書けなくなってしまったのです。それまでは自分の中にある葛藤や心の叫び、世の中に対する思いを歌にしてきた人が、都会的でオシャレな歌を作らなくてはいけないのですから、それはそれは苦痛でしょう。頑張って歌詞を書いてもことごとくボツにされてしまい、そうなるともう何を書けばいいのか分からなくなります。更に苦難は続き、3枚目の「イルミネーション」の制作後に、愛奴からの付き合いだったディレクターの蔭山啓吾氏が異動となってしまいました。

新しいディレクターとの出逢い

蔭山啓吾氏の次に担当になったディレクターは新人のディレクターで、東京大学でアメリカ文学を学んだという同い年の人でした。「路地裏の少年」をパチンコ屋で聞き、「いつかはこの国 目を覚ますと」というフレーズを「いつかは孤独に 目を覚ますと」と聞き違えたといいます。「孤独に目を覚ます」とは、なんて素晴らしい表現をするアーティストなんだ!と感激したその人の名は、須藤晃。後に尾崎豊氏や橘いずみ氏を育て、玉置浩二氏の楽曲制作にも関わった名物ディレクターです。須藤氏のディレクターとしての初めての担当アーティストは、浜田さんだったのです。

須藤氏は「詞が書けなくても、書けないということを歌にすればいい」と言ってくれましたが、それでも詞が書けない状態は続きました。4枚目のアルバム「マインドスクリーン」では、収録曲10曲のうち、実に6曲が作詞家の手による詞となり、浜田さんの言葉はあまり聞けなくなってしまいました。しかし、自作詞の4曲には浜田さんの本音が表現されており、そのうち3曲はセルフカバーされ、今でも時折ライブで披露されています。

シティポップスの服を着せられ、その服のサイズにも着心地にも違和感だらけだった浜田さんですが、須藤氏を含めた周りのスタッフ達はどう思っていたのでしょうか。

実はワタクシは、周囲のスタッフにも「シティポップスの浜田省吾」というものには、違和感があったのではないかと思っております。シティポップスシンガーとして売らなければならなかったのは、ビジネスとしての戦略なだけで、浜田省吾というアーティストの本質はそこではないと誰もが思っていたのではないでしょうか。というのも、シティポップスを作らなければならなかったのに、セカンドアルバム「ラブトレイン」には「悲しみ深すぎて」、サードアルバム「イルミネーション」には「ミッドナイトブルートレイン」、次の「マインドスクリーン」には「悪い夢」という、その時々の浜田さんの気持ちを代弁するかのような佳曲が、それぞれに収録されているからです。

「ミッドナイトブルートレイン」は迷いながら歌い続ける男の歌であり、「悪い夢」は全てのものが崩れ落ちていくのを目の当たりにする男の歌です。それらはアルバムのラストを飾る曲であり、ラストの曲とはアルバムを象徴する重要な曲であるはずです。シティポップスとして売り出したいと言っておきながら、アルバムのラストを飾る曲にアーティストの本音が吐露された曲を選ぶとは、実はディレクターを始めとする周囲のスタッフこそ、メッセージシンガーとしての浜田省吾に期待していた証拠だと思うのです。

特に「悪い夢」は、ハッキリとストレートに言えば、「俺が今やっていることは最低だ!」ということを歌っている訳で、およそシティポップスとは対極にある楽曲です。それをアルバムのラストナンバーにするというのは、作った本人よりもスタッフの覚悟の方が大きかったはずです。

しかし、浜田さんの素晴らしいところは、そうした時代の楽曲も捨て曲とせずに、時々ライブで歌ったりするところです。多くのアーティストの場合、封印してしまうことも少なくないでしょう。不遇だった時代の曲も、今では殆んどが何らかの形でリメイクされており、不本意だった作品もきちんと消化(昇華)されているところが素晴らしいです。音楽だけに限らず、人生においてそれは見習いたいですよね。

ついにヒット曲誕生!

ソロデビューから3年、なかなか上昇気流に恵まれなかった浜田さんでしたが、1979年にようやくチャンスが訪れます。CM曲の制作が巡ってきたのです。商品は「日清カップヌードル」です。今でこそカップヌードルは超メジャー商品ですが、当時は今ほどの商品力はなく、更にメジャーにするために新たなCMを制作する、ということでした。後にこのCMのシリーズは大ヒットの登竜門となり、大沢誉志幸氏の「そして僕は途方に暮れる」、ハウンドドックの「ff(フォルテシモ)」、中村あゆみ氏の「翼の折れたエンジェル」などが大ヒットになっています。その第一弾が浜田さんの「風を感じて」という曲になったのです。シングルは1979年7月1日に発売されました。

前回の記事にも書きましたが、実は「風を感じて」は売り上げ枚数とチャート的にはそれほどのヒットではありませんでした。それでもそれまでの浜田さんの活動内容からすると、天文学的な大ヒットに値するものとなったのです。この時期、CM契約の関係で3回のテレビ出演も行ない、認知度は大きくアップしていきました。そしてこのヒットを受け、制作されたアルバムが「君が人生の時」というアルバムでした。

「君が人生の時」

アルバム「君が人生の時」は、1979年12月5日にリリースされました。元々は「風を感じて」のスマッシュヒットを受けてのことなので、アルバムタイトルも「風を感じて」にして欲しい、というレコード会社の要請があったそうですが、浜田さんは「それだけは絶対に嫌だ!」と断り、詞に関しても外部の作家には頼まないと決意しました。「風を感じて」の歌詞は作家との共作となっておりますが、作家が書いた部分は殆んど書き直されたそうです。しかし、それでスラスラと詞が書けるようになった訳ではなく、その制作には苦しんだようですが、出来上がった詞には等身大の浜田さんがいました。考えてみれば、ファーストアルバムには生身の浜田省吾という人間がいた訳で、元々が自分の気持ちを歌う人であった訳です。それを徐々に取り戻していったのが「君が人生の時」というアルバムなのではないでしょうか。

ロックへの回帰

「君が人生の時」で息を吹き返した浜田さんは、次のアルバム「HOME BOUND」で更に進んでいきます。「君が人生の時」では、歌詞に関しては取り戻した感がありましたが、サウンド面に関してはまだシティポップスを多少引きずっていたように思います。「HOME BOUND」ではサウンド面でも原点回帰しました。いや、原点回帰という言い方は相応しくないかもしれません。ロック・サウンドという新たな武器を手に入れたというのが正しいかもしれません。

ファーストアルバム「生まれたところを遠く離れて」は、浜田さんの生身の感情をストレートに表現したものでした。それは多少荒削りであっても、リアルな若者の言葉が聴く者の共感を呼んだのです。しかしサウンド面においては、特定のアレンジャーを設定しなかったせいか、華やかさに欠ける部分は否めなかったのではないでしょうか。アレンジはヘッドアレンジで、仲間内のミュージシャンと「せーの!」で録ったといいますから、洗練されたというよりは、その場の感覚を信じて録っていったのだと思います。それに加えて、時代の音というのもありますし、録音技術もまだまだ途上でありましたので、ロックというものがどのようにロック然としていくのか、誰もが模索していた時代だったのでしょう。それを考えれば、やはりアメリカやイギリスの演奏や録音の技術が如何に進んでいたかが分かります。「生まれたところを遠く離れて」は、ロックのスピリッツにサウンドがまだ追いついていなかったということなのかもしれません。

アメリカが教えてくれたサウンド

しかし「HOME BOUND」は違います。「君が人生の時」のヒットのご褒美という訳ではありませんが、レコーディングはロサンゼルスで行われ、バックには西海岸の一流ミュージシャン達が起用されました。ドラムにマイク・ベアード、ベースにスコット・チェンバースとジョン・ピアース、ピアノがニッキ―・ホプキンス、そしてギターにはマーク・ゴールデンバーグやスティーブルカサーが参加したのです!元々はジャクソンブラウンのバンド、ザ・セクションとの共演を希望していたそうですが、ジャクソンブラウンのツアーとレコーディングの日程が重なってしまい、ミュージシャンが変わってしまったのでした。しかし、それが功を奏します。今に繋がる浜田省吾サウンドは、この時に生まれたと言っても過言ではないでしょう。元々はスティーブ・ルカサーのようなハードなディストーションは望んでいなかったとのことですが、それが今では浜田省吾サウンドの根幹になっています。もしザ・セクションとのセッションになっていたら、今現在のサウンドとはちょっと違っていたかもしれません。いずれにしても、日本の音楽業界で悶々としていた浜田さんを励まし勇気づけたのは、本場アメリカのロックミュージシャン達でした。自分の音楽を自分のやりたいようにやる、そんな基本的な姿勢こそがロックのスピリッツだということを、本場のミュージシャンから学んだのです。

それ以降の浜田省吾

「HOME BOUND」以降の浜田さんは、水を得た魚のように躍進していきます。レコードセールスはもちろんのこと、ライブの動員数もうなぎのぼりとなり、1980年にはついに日本武道館公演を成功させます。何故そうなったのか、それは、自分のやりたいことに正直になったからではないでしょうか。売れるということは重要ではありますが、ある意味結果論です。極論すれば、売れることが目的であるならば、別に音楽である必要もありません。浜田さんは数々の挫折の末に、自分が本当にやりたかったことに気づいたのでしょう。そうして「シティポップ」という偽りの服を脱ぎ捨て、愛と青春、社会と世界、希望と絶望をポップなメロディーとロックサウンドに織り交ぜ、浜田省吾というブランドを築いていったのでした。それはデビュー当時、初代ディレクターだった蔭山啓吾氏が目指したものだったと思います。

もちろん、それ以降も様々な葛藤や事件はあったでしょうが、それらはこれまでの苦悩とはまた違う「成功者」としての苦悩でしょう。それでも浜田さんが驕ることなく、地道な活動を重ねてきたのは、あの売れなかった苦渋の日々があったからに違いありません。それ以降のこともあれこれ書きたいところですが、そうなると一冊の本になってしまうので、機会を見てまた個別に御紹介したいと思います。

ワタクシが何故浜省っぽいと言われたのか

最後に、浜田省吾論①にちょこっと書いた問いを解明したいと思います。その昔、ワタクシはことある毎に「浜省っぽいね〜」とか「浜省好きでしょ?」とか言われてきました。浜田さんの音楽を聴く前からそう言われていたのです。それがきっかけで浜田さんを聴くようになったことは「浜田省吾論①」で説明しました。では何故、多くの人がそう思ったのでしょうか。

それはきっと、ワタクシも稚拙ながら、ワタクシ自身が感じたことを歌にしていたからだと思います。それが浜田さんとの共通点だったのでしょう。いってみれば「青春の実況中継」がそこにあったという訳です。「ワタクシも浜田さんも同じなんだ〜!」などと図々しいことは申しませんが、浜田さんの歌があれだけ多くの人に支持されているということは、きっとみんな、同じような痛みや悲しみ、何かしらの思いを背負って生きているということなのではないでしょうか。

浜田さんは70歳を超えても「愛と青春の浜田省吾」です。ワタクシも僭越ながら、そんな大人になりたいと思っております。





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