ケイタの憂鬱。

「終わった…」

普段だったらリモートで仕事をしているこの時間に、最寄駅前のロータリーを歩いていたケイタは唐突にそう思った。今日は電車に乗る予定はない。それでも駅に向かっていたのは、近くのビルで行われているワクチンを接種するためだった。

「もう戻ることはできないんだ…」

15年前にスタートしたこの街の再開発は5年ほど前に完成した。人一倍大きく建てられたそのビルには、完成に合わせて本社を移してきた会社の名前が、誇り高く所有者を示すように赤くつけられ、50年以上も続くデパートに代わって街のシンボルとも言える存在になっていた。

供給量が制限されているワクチンを街の住民のために開放してくれる、という何とも気前のいいその会社の恩恵に預かり、ケイタは1週間前に接種の予約をしていたのだった。

「自分で決めたことじゃないか…」

ワクチンを接種する多くの人たちは、希望を持っているはずだった。このワクチンで、これまで1年以上も会えない時間が続いていた人たちと、少しでも安心して会うことができるようになるはずだ、と。

けれど、ケイタは思ってしまったのだ、ウイルスが得体の知れないものだというのであれば、このワクチンだってオレにとっては得体の知れないものだ、と。それを身体の中に一度取り入れてしまえば、もう取り入れなかった頃に戻ることはできないのだと。

「オレもあのマンガみたいに巨人にさせられたりしてな…」

先日大団円を迎えたそのマンガでは、「巨人になる血」を一度採取してしまうと、「叫び」なる力によって巨人にさせられてしまうという話になっていた。

会いたい人がいるわけではない。誰かに会えないことを苦痛に感じているわけでもない。この1年間、自宅にいる時間は確かに長かった。けれど、それほど苦痛でもなかった。そうであるならば、何のためにワクチンを打つのか。

それでも打つことを決めたのは、「なかなか予約の取れないワクチンが受けられるチャンスが、たまたま自分の目の前に転がってきたから」、それだけのことだった。

ケイタはただビルに向かって歩いた。他の人にそんな風に思っていることを悟られないように。

「なんでオレはこんなに希望を持てないんだ」

ビルの前には、この街に住む老若男女、様々な人たちがワクチン接種の予約券を持って並んでいた。希望に満ち溢れる人たちの顔が眩しかった。

#小説  #エッセイ #のようなも

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