見出し画像

幸福の閾値

幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。

トルストイ『アンナ・カレーニナ』

印象的な書き出しだ。あらゆる文章の中で引用されているのを見かける。そういえば私が最初に『アンナ・カレーニナ』を読んだのも、村上春樹の短編『眠り』の中で主人公の女性がこの本を読んでいる場面があったからだ。

それだけ人々の共感を呼ぶ、真理をついていると思わせる文章なのだろう。私も最初に知った時には、確かになぁ、と感心した。「アンナ・カレーニナの法則」というものまであるらしい。

しかしこの内容、考えてみれば当然だ。「幸福」や「成功」には達成しなければいけないいくつかの条件があり、基本的にはそれら全てが一定基準を満たしている必要がある。条件が全て揃っている状態、はどんなケースでも似よっているだろう。それに対して「不幸」や「失敗」は、条件がどれか一つでも一定基準を下回っている状態なのだから、「どの条件を」「どの程度」というバリエーションがある。さらに基準を下回る条件が複数あれば、その組み合わせも膨大だ。

だから多分、幸福を感じたいのなら、その条件を洗い出してから全てにおいて平均点を取れるようにしたら良いのだろう。満遍なく平均点を取る。私が最も苦手とするところだ。私はなんでも常にアンバランス、極端、凹凸人間。そういえば学生時代の5教科の成績レーダーチャートもいつも歪な形で、3年分のあれらを組み合わせたら大層複雑で綺麗な幾何学模様が出来るんじゃないだろうか。

幸福についての法則で言うと私には持論がある。それは簡単に言えば、こうだ。「幸福には閾値がある」

これを思いついたのは中学か高校の生物の授業中で、「全か無かの法則」を習った時のことだった。

覚えている人も多いと思うが、「全か無かの法則」とは、一本のニューロンにおける活動電位の大きさは刺激の強さに関係なく一定であり、刺激の強さが閾値より大きければ興奮する、小さければ興奮しないという2択しかない。そして、刺激の強さは興奮の頻度に現れる、というものだ。

引用元

なんというか、「幸福」にはあまり強度の差がないような気がする。幸せを感じられること自体が幸福で、その内容の大小は大した加点要素にはならないんじゃないだろうか。ささやかな幸せ、などとよく言うが、ささやかなのは事象であって、感じている「幸福」自体は大きい。逆に言うと、とびきり大きな幸せというのも私にはあまりない。ただ、大きな幸せの中にいる時は「幸せだなぁ」と実感する頻度が高い。幸福か幸福じゃないかの2択で、強度や大きさは頻度で現れる。「全か無かの法則」と同じだ。

対して、不幸には段階や強度がある。最近なんかツイてないなぁ、調子悪いなぁという程度に留まる時もあれば、もう全てが最悪、どん底、という時もある。更に、どん底、と思っていてもそれより更に悪い状態に陥ることも珍しくない。踏んだり蹴ったり、なんていう言葉もある。不幸は、底なし沼だ。

これを思いついてから私は、誰から見ても憧れ、百点満点の理想、みたいなものは諦めるようになった。諦めるというより、(私にとっては)あまり意味がないな、と感じて追究するのをやめた。代わりに、自分が不幸だと思う条件を洗い出してそれらをなるべく抑えられるようにすること、自分の中でささやかな幸せを感じる瞬間とその頻度を重視するようになった。具体的に言うと、珍しい犬が散歩しているのを見かけると「ラッキー、幸せ!」と思えるので、そういった場所に定期的に出かけるようにしている。こう書くとかなりしょうもない感じがするが…。

そういえば甲本ヒロトが『情熱の薔薇』の中でこう歌っていた。

なるべく小さな幸せと 
なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう 
そんな気持ちわかるでしょう

まさに、そんな気持ちである。私がどれだけ理屈をこねくり回したって、何百字以上も書き連ねたって、やはり甲本ヒロトの数フレーズにも敵わない。

※サムネイル画像引用元↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?