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人生はゲームだという友人へ

人生はゲームだという友人へ

いつだったか、あなたは「この世界は自分が作り上げた虚構で、私は一人きりで自分を操作しながら人生というゲームをプレイしているだけなの」と言っていた。私はその時のことを未だにふと思い出します。あなたは直前に美容室に行ったばかりで、細かい髪の毛の切れ端が瞼に"犬"という漢字の右上の点のような感じでついていて、ちょっと間抜けで可愛かったな。前髪は少しばかり切られすぎていて(美容師っていうのは何故1週間後にちょうど良くなるように髪を切るんでしょうか?)、いつもより幼く見えた。だから「人生はゲームなの」と言った時の、諦めたような黒々とした瞳がアンバランスで、それが印象に残っています。

果たして人生はゲームだろうか?

真っ先に思い出した有名な言葉が2つあります。1つめは、スヌーピーの「配られたカードで勝負するしかないのさ」というもの。もう1つは『ライ麦畑で捕まえて』の中でスペンサー先生に「人生とは実にルールに従ってプレイせにゃならんゲームなんだ」と言われた時のホールデン君の言葉。

ゲームときたね。まったくたいしたゲームだよ。もし君が強いやつばっかり揃ったチームに属していたとしたら、そりゃたしかにゲームでいいだろうさ。それはわかるよ。でももし君がそうじゃない方のチームに属していたとしたら、つまり強いやつなんて一人もおりませんよっていうようなチームにいたとしたら、ゲームどころじゃないだろう。お話にもならないよね。ゲームもくそもあるもんか。

著:J.D.サリンジャー 訳:村上春樹『The Catcher in the Rye』

私は善く生きることは、その時に出来る範囲で最善に思える選択をすることだと設定しています。だから、そういった意味ではスヌーピーの言うことに同意できる。でも私はどっちかっていうとホールデン君側に立っちゃうかも。だって、周りが良いカードを配られていてロイヤルストレートフラッシュとかで景気良くバンバンと上がって行く中で、自分だけブタの手で取り残されたら、面白くないしやる気を失くして当然じゃない?もちろんどんなカードでだって戦略次第では勝つことができるかもしれないけど。カードゲームなら1回くらい悔しい思いをしても次がある。でも人生に次なんてないでしょ?一回切りで、しかも降りることもできないんだから。それでも人生はゲームだって割り切るなんて、残酷すぎる。

人生がゲームなら"負け"や"ゲームオーバー"が存在するはずだけど、そんなものはないと思う。人生において負けるのは、"私は負けた"と思った時だけです。もちろん自分の人生におけるゴールを設定していて、それを達成できないことを"負け"とするなら、人生はゲームと言っても良いのかもしれないけど。でも別にいつだってそんなゲームは降りちゃって良いし(念の為だけど死ぬと言うことじゃなくてね)、ゴール設定を変えちゃっても良い。

人生には共通のゴール設定や勝利条件なんてないし、当然ながら勝ち負けもない。だから人生はゲームなんかじゃない、というのが私の所感。

何で私があなたの言葉を思い出したかっていうと、本屋大賞にもノミネートされた小川哲『君のクイズ』を読んだから。クイズ界の王者を決める大会の決勝戦で主人公の対戦相手が、問題が1文字も読まれないうちに正解して優勝して、それがヤラセなのかどうかを解明していくっていう話。その本の中に、こういった文章が出てきました。

クイズに答えているとき、自分という金網を使って、世界をすくいあげているような気分になることがある。僕たちが生きるということは、金網を大きく、目を細かくしていくことだ。今まで気づかなかった世界の豊かさに気がつくようになり、僕たちは戦慄する。戦慄の数が、クイズの強さになる。

クイズをしていると、そうやって一つの知識が他の知識と結びつき、意外な場所から正解にたどり着いてしまうことが頻繁にある。記憶とはそうやって互いに連関しているものだ。それゆえ、一見矛盾するようだが、知識が増えれば増えるほど、より多くの事柄を覚えることができるようになっていく。

小川哲の『君のクイズ

私はクイズはしないけど、知識が増えるほど自分の世界が豊かになっていって、世界の色んなことを掬い上げられるようになるっていうのに共感した。

『ライ麦畑でつかまえて』を読んで"ostracize"という単語を見た時に、その語源のオストラシズム(陶片追放)を思い出し、それを学んだ時の世界史資料集の写真でテミストクレスが追放されていたことや、彼がサラミスの海戦で勝利したことを思い出す。そんな時、私の心はギリシャの海の上にある。たまたま行った喫茶店にデヴィッド・ボウイのポスターが貼られていて、それを見て彼が阪急電車に乗っている写真を思い出す。すると私の心は、あなたと阪急電車に乗って京都に行ったあの日に戻る。あの時はコロッケを食べ歩きして、ふたりとも唇がテカテカになったよね。それであなたは唇をさりげなく舐め続けていて、それがちょっとアホな子犬みたいで笑ってしまいそうだった。あの日は楽しかったな。あなたがしょうもないことで笑いすぎて、涙が滲んだ時の潤んだ瞳がすごく好き。綺麗で艶々した黒い羽を持つ大きな鳥が静かに滑空しているところが頭に浮かんでくる。

色んなことを知っていると知識や思い出が数珠繋ぎになっていって、あらゆる時や場所に心が飛んでいける気がする。こういう時、私はとても自由なんだと爽快な気分になります。

ありがちな言い方だけど、人生はゲームなんかじゃなくて航海みたいじゃない?その場で最善の選択を取りながら海を渡り続けて、色んな港に行くの。港で降りると懐かしい思い出や新しい景色に出会える。どこまでも行ったり帰ったりしても良いし、どこかの港に永住しても良いの。

そういえばさっき言った本の中でこんなクイズが出てきました。

「Q 山頂までの登山道は六段しかなく、標高三メートルで日本一低い山とされる、仙台市の山は何でしょう? 」

答えは「日和山」なんだけど、これは即答できた。この前行ったマロリーポークステーキにそういうメニューがあったから。ここのポークステーキは重さに応じて山の名前が付けられていて、一番小さいやつの名前が「日和山」だったの。一番小さいやつに名前が使われているなら低い山なのかな?と調べてみて、仙台にある日本一低い山だということを知りました。(一緒に食べに行った友人は「こんな小さいのを頼むやつは日和ってるから日和山なんじゃない?」とか言ってたけど、そんな煽りみたいな由来なわけないじゃんね。)

https://www.hotpepper.jp/strJ001223112/food/

今度一緒にこのマッターホルンに挑戦してみない?それでまた唇をてかてかにさせよう。楽しみにしています。

人生は航海だと言う、あなたの友人より

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