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自分のために過ごす

 「自分のために過ごして」と言われて、どのくらいの人が「自分のため」に時間を使えるのでしょうか。私は長らく自分のために過ごせませんでした。ずっと自分のためと思って行動しても「心地悪い」状態が続きました。

 はじめは手軽にできることを衝動的にのめり込む私が現れました。ゲーム、ドラマを見ることなど、これまでやりたくても我慢してきたことを何時間も続けました。疲れを意識することなくやり続けました。ほぼ徹夜で頭がぼーっとしてもそれでも続けました。やることに疲れたとしても、中断することができません。ゲームはクリアするまで、ドラマは1シーズン見終わるまで続けるのです。自分が面白いと感じるかなんて二の次です。終わらせることに意味があるのです。そうして1日1日を消耗するかのように没頭していきました。毎日やることが変わり、極端でした。

 次に外に出かけてはお金を使う私が現れました街を徘徊すれば、洋服を買い、少し高めのランチを食べました。エステもマッサージも行きました。お金が流れるように出て行くことに初めのうちはドキドキしていきましたが、次第に緊張もなくなりました。貯金はまぁあるし「自分のため」と思って行動していました。このお金の使い方は極端だなと意識しつつも「まぁモノは試しか」と割り切って散財する私がいました。

 そうして一通り試して欲しいものややってみたいことがなくなると、これまでの自分や今考えていることをブログで表現するようになりました。このブログがそうです。私としては書くことがたまらなく楽しかったですし、ゲームと同じように没頭していました。しかし1点異なる点がありました。それはゲームは次に何が来るなどなんとなく見通しを立てられていましたが、私が何のテーマのブログを書くかは未知でした。時にはテーマを決めてシリーズものっぽくしたこともありましたが、結局のところ日記のような形に戻りました。日々気づいたことや考えたことを発信するに至りました。

 ブログを書いている時の私には2種類の私がいます。何かの軸に則って解説する「評論家のような私」とこれまでの経験を思い出して意味づけしたりリアルな当時の感情を思い出す「身を削る私」です。前者であると書いていて正直楽です。スラスラとキーボードを叩きます。対して後者は書いている途中で逃げ出したくなります。少し見栄えがいいように事実を変えたいと思う自分が現れたり、本当はものすごくドロドロした気持ちを抱いているのに、聖人のような優しい気持ちで言い換えようと思う自分が現れます。

 「評論家のような私」を続けていると楽ですが、何のためにまとめているんだ?とふと我に帰る時があります。私自身の取り組んで我に帰った時は「作業をしていたな」という感覚になります。あまり満足感はなく、脳も飽きています。対して「身を削る私」で表現できた時は、静かな高揚感で満たされています。「なんかよくわからんが、いいものができたぞ」と思っています。違う日に同じテーマで表現しても「身を削る私」で表現した私を超えることはありません。どこか狙っていたり、文章が固くて面白くない文章が現れます。

 「身を削る私」にはなかなかなれません。いざブログを書こうと思っても昨日タイトルを決めて書き途中なものが今日になると全然書く気が起きないなんてザラです。そうして今日表現したいことを書いています。すると「身を削る私」になる可能性は高いのですが、少しでも心に不安を感じていると「評論家の私」に戻ります。少し心地悪い状態に戻ります。

 私にとって「身を削る私」は「心地よい」状態です。自分のために時間を使っていたなと思い返せば捉えることができます。ただ「身を削る私」になっているの時は「心地よい」なんて意識しません。次々と繋がっていく言葉にただキーボードを叩いていってるのです。なおこの記事は「身を削る私」で書いています。読み手としてはどう感じるのでしょうか。

 「身を削る私」が度々現れるようになってからは、「休む」ことができるようになってきました。初めのうちはブログを書いては達成感で休むといった形でした。やり切った、出し切ったとという感覚で休むのです。この時は少し弱っています。少し疲れているとも言えるかもしれません。この後はお気に入りの動画を見たり本を読んだりと「無」になることが欠かせません。何もしない時間がないと「身を削る私」にならないのです。休まずに気張って何か情報を集めに行ったりする私が出ると次は「評論家のような私」が現れます。自分の感覚の中では「頑張って」いるのですが、「頑張って」も私が最終的には満足しません。アマタとカラダを空っぽにしないと「心地よい」サイクルにならないのです。「身を削る私」にならないのです。自己保身ではなく挑戦しようとする私にならないのです。

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 話は変わりますが、私はこれまで何かの重りを抱えている感覚でした。これを日常生活ではっきりと意識することはありませんが、家族と話すと感じます。本音を言うことができません。言いたいことを隠して、相手に合わせて、相手の求めていることを悟って体現してきました。

 昨日、家族と久しぶりに電話しました。いつもは家族に合わせて会話します。相手が話を聞いて欲しそうだったらそれに付き合います。こちらからの情報で刺激が欲しそうだったら、「これなら食いつくかな」というテーマを話します。そうして私は家族の誰からも好かれていて、気軽に連絡される相手なわけなのですが、私自身は私を表せていませんでした。常に気を使っていました。

 しかし昨日は珍しく私が本音を話したのです。自分の正直な気持ちを表現したのです。それは家族が私が仮面をかぶって接していることに気づいて指摘してきたことと、いつもなら私が意見を言うと家族も自分の意見を被せてくるのですが、昨日は違いました。私が意見を言うと「なるほどね」「そうね」と話す家族が現れたのです。

 電話では家族は私は最近とても満たされているの、と言う話しから始まりました。それは日頃家族から電話が来ないことで私も知っていました。「便りがないのは良い便り」と言いますが、まさにソレです。何か切実な悩みや衝動、不安がないのか、近頃は家族から電話がかかってきませんでした。そんな家族は「すごく幸せ」と言います。「周りの人がうまくいきますようにって祈ることができるくらい余裕がある」と言うのです。

 電話をかけてきた家族はかつては一言で言えば「情緒不安定」と言える状態でした。高い理想を掲げ、しかし現実の自分は理想のためにコツコツした努力や継続ができませんでした。そのような理想と現実のギャップからか、家に帰ることを嫌がり1日の大半を外で過ごしました。家は荒れ果て「腐海(ふかい)」といった形でした。高価な洋服を日常では買い漁るものの、あまり着ておらず1回着れば床に抜け殻のように脱ぎっぱなしにするといった形でした。何か思い立つと即行動していました。たとえばちょっと手の凝ったスープを作りたいと思えば一人暮らしとは思えない量の食材を買ってきて、見栄えを重視して作るのです。そうして作り終わった後は作ったことに満足して片付けないでいました。どんどん「腐海」の度合いは進行していきました。

 そのような家族が「満たされている」と話すようになりました。以前は会話が成り立ちませんでした。ある友達の話をしていたと思ったら、急に会社の話になります。こちらが話したことに対して質問しても、質問とは全く異なるこたえがかえってきます。たとえば「会社での〇〇が心配なの」と話すので「どんなことが心配なの?」と聞いても、自分がいかに大変か、苦しいかを語ります。こちらは「話に出てきた△△さんとの人間関係が心配なのかな?」と推測はできますが、気持ちを全面に出した会話は続きます。同じことを何度も何度も繰り返します。「心配だから解決したいのかな?」と思ってこちらが話す、原因や手段の整理するような話の流れを拒絶します。ただ発散したいだけなのです。まるで「彼氏」、「彼女」のようです。私が「彼氏」のように論理的にアプローチすることをしますが、家族が「彼女」で自分の気持ちを全面に出して話すのです。それも長い付き合いで自覚しているため、私はこれまでずっと家族の話を受け止めるに徹してきました。私がちょっと雑談で自分の身の上に起こったことを話そうものなら、家族の身の上に起こったことや、感じたことが何倍にもなって続きました。その度に心にイロイロと溜めているんだなと聞くに徹してきました。なるほどね、と相槌を打ってきました。家族が大変な環境にどうしてなるのか、ココがボトルネックになっているんだという指摘を避けてきました。本音を言わずにきました。

 今の家族は「情緒不安定」な状態を脱して、人の話を聞けるようになりました。相手の話を聞いて、それに少し演じているところがあると、仮面をつけているところがあると、指摘するようになりました。これは情緒不安定な時には見られなかった変化です。以前は自分のことにしか関心がありませんでした。むしろ自分のことで手一杯という方が近いです。周りがどのような状態であるかに気づけないのです。

 家族が「安心した人」になったキッカケは欲しくて欲しくてたまらなかったものを得たためです。ウチの家族の場合は「愛」でした。身近にどんな時もそばにいる人がいて、人生を共に歩んでいく人がいます。これまでは3ヶ月後の自分がどうしているか分からないといった状態でしたが、今の家族は3ヶ月後どんなふうに過ごしているかなんとなく予想できます。その予想ですごく良いと思うに至っています。

 誰かと長い時間過ごすようになって「愛」を心から感じられる場合は稀だと思います。私の友達を思い返しても近づきすぎて「愛」を表現できなくなったり、余裕がなくて「愛」することができなかったりと、様々な形があります。誰でも試行錯誤をするところだと思いますが、幸いなことに家族は「愛」を与えているし与えられているのです。そうして人の話を聞けるようになったに至ります。私はこれまで演じてきましたが、その演技を見抜いて本質を指してくるようになりました。ちょっと雑談しても、以前では話を取って家族ばかりが話ていましたが、これまでと違います。「なるほどね」と相槌を打つのです。そうした経緯で私は本音を話すに至りました。

 私はこの半年「自分のために過ごす」という事を私なりに本気でやってきました。本気と言っても、全力でずっと何かに取り組んでいるというわけではありません。時には休んでリラックスするという、これまでは全くしてこなかったことをするようになったのです。すると「身を削る私」に私は出会えました。仕事で何かと忙しい私の時もある意味身を削る私でいました。毎日が忙しく、自分が何を感じているのかに気づかない、気づけない日々を過ごしていました。毎日頑張ってはいるけれど、その生活は無味乾燥していました。結果は出るし周りからは評価され、条件も良くなるけれど、私は生きているという感覚にはなりませんでした。まるで機械のようでした。

 家族に本音が話せるようになったのは、家族の状態が変わったこともありますが、私自身も変わっているのでしょう。まだまだ強がりで、自分がしっかりしないと、結果を出さないと、と思う私はいますが、以前よりもその囚われは薄くなったと思います。ちょっと上手くいかないことがあっても、まぁそういうこともあるよねと受け止めることができます。以前のように慌ててつくろったり、演じることもしません。「諦める」とは少し違う状態がそこにはあります。深刻に自分を責めるでもなく、ただ今の自分の思うがままに過ごしています。今の私はこれは「自分のために過ごす」ことかなと思っています。

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