勝手に解釈する人

人と話している時にある状態を話すと、多くの人はそれに対してリアクションをする。なるほどね、そうなのと相槌を打つ場合もあるし、あれこれ意見を言う形もある。それは〇〇だね。中には、白黒つける人もいる。それはイイね、悪いねと評価する。

そのようなリアクションで、勝手に意味を解釈する人がいる。相手はうんうんと相槌を打っていただけなのであるが、リアクションが薄いからきっと良くないんだろう、興味がないのだろうと判断する。状態に対して意見を言われば場合でも、勝手にこう思ったんだろうと考える人がいる。意見はそれはいち意見であり、別に全てに対してそれが通用するとも思っていない。何か事象が起こったことに対して反応したに過ぎない。会話の中で何かイベント、例えば新たな会話の流れができたから、それに対してリアクションを下に過ぎない。意見を少し言ったに過ぎない。しかし、それを聞いている側はその人をそのような人なんだと形づくる。世の中はそういった形なんだと思い込む。このような人は不安な人だ。

人は人とコミュニケーションを取る。コミュニケーションなしに生きている人は変だねと思う。浮世離れしていると思う。しかし、世の中には人とコミュニケーションを取らずとも人の様子が分かり、会ってみると別に浮世離れしている人とも思えない、どこかバランスの取れた人がいる。世の中はこのような形だと決めつけることもない。このような人は安心している人だ。

勝手に解釈する人は、事実を事実として認識できない人だ。物事を勝手に解釈する人だ。しかし、この勝手に解釈することは生きていく上で大変役に立つ。この人はどうやら虫の居所が悪いのかもしれない、この人はなんだかご機嫌だ、と見抜くことができるようになる。人でなくとも、過去の経験から今日はどうやら雨が降りそう、このまま放っておいたら良くないな、と現状を把握し、将来の事をあれこれ予想することに繋がる。むしろこの能力がないとなかなか生きていけないとも言える。生きる上で必須の能力だ。

勝手に解釈することは生きていく上で必須の能力の一つだ。しかし、それをあまりにもずっと使っており、なんだか疲れる人がいる。人にこたえ、毎日が忙しく、頑張らないといけない。常にせっせと動いているため、エネルギー不足になる。やる気が出なくなる。無気力になる。これは不安を感じている人がなる症状だ。

前述した人とコミュニケーションを取らずとも大丈夫な人、どこかバランスの取れた人、安心している人は”勝手に解釈する事を減らした人”である。事実を事実として捉える。雨が降ったら、雨が降っているという現象だけを認識する。何かの意見を言っている人に対して、何か発言しているな、と認識する。その内容を理解しているが、それに意味づけしたりしない。つまり、発言している人が〇〇な人と決めつけない。

勝手に解釈しないことはある種のテクニックがいる。その事実を理解しつつも、それを一歩引いて捉える。例えるならば、ビンの中につめたカタツムリを眺めるような形だ。カタツムリが動いているな、キャベツを食べているな。その事実を認識する。カタツムリを瓶の中に詰めるなんて可哀想、カタツムリはビンの中で生きて毎日退屈であるに違いない、などと勝手に解釈しない。これは人が発言してきたことでも同様である。自分のことについて何か人が言ってきた時も同様である。目の前で起こっていることに囚われないことが、より満たされることに繋がる。安心することに繋がる。優しい世界に包まれることに繋がる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?