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私はどうしたいのか?

私はどうしたいのでしょうか。これを考えることをこれまでは先延ばしにしてきました。決めると選択肢が狭まる気持ちがして怖かったのです。しかしどこか気持ち的に考えても良いかなと思えたので、湧いてくる思考を表現してみようと思います。

どうしたいか。私はすると決まって「ワンちゃんや猫ちゃんと共に暮らしたい」と語ります。周りは私が動物好きなことを知っていますし、私自身もそう思っています。ですけれども、これを実際に実現するのは何だか違うと思っています。それは生き物と共に生きると責任が生じます。ワンちゃんや猫ちゃんはひとりで餌を見つけられたりするわけではないので、ケアをする必要があるわけです。ひとりの時間が長いと寂しがります。そうしてペット中心の生活となっていくのですが、私はこれを「自分にはまだ早い」と思っています。ペット中心になる生活はいつからでもスタートできます。子供についても同様に考えています。手段を選ばなければ「共に生きる」選択は取れます。血が繋がっておらずとも、親しみのある関係になることができます。

誰かと共に生きることを選択すると、自分が自由に行動しにくくなると感じます。対して今は自立している人としか共に生きていないので、私は日頃自由に行動できます。かと言って特別大きなことを挑戦しているわけではないですが。そんな心情の中、周りが向いていると語る「生き物と暮らす」ことは自分にはまだ早いと思っています。「どうしたいか」を考えた時に「生き物を暮らすのも良いけど、動きにくくなるな。」と何だか面倒だなと感じる所に目がいってしまうのです。それでは周りが向いていると話すこのこと以外に何がしたいのでしょうか?

私の年齢的には子供をつくることを考える歳です。「どうしたいか」と考える時に「子供重視の生活」も何だかプロトタイプのような考え方と付け合わせて考えるのですが、今の私には正直まだ先でいいかなと思えます。これは「ペットと共に暮らす」のと同様です。すると私は「どうしたい」のでしょうか。

私はこれまで「理想を追求する」形で人生を歩んできました。そのため私の人生を語る上では何だか鼻が高いです。「自慢できる」と感じます。しかしそんな自慢は最初のうちは満足していましたが、今は何だか違います。もっと自分らしく生きたいと思うのです。それでは私の思う自分らしくは何でしょうか。

ヨガや運動は何だかあっていました。文章を書くことも合っています。無理なくできるし自然とやりたいと思ってやっています。ゲームは友達に会うや家族に会うなどのイベント続きの時や文章書くときに疲れた時に取り組んでいます。そのためメインの取り組むことではないように感じています。孔子た手段を思いつくのですが、この手段を思い浮かぶ根っこにある私のベクトルはどちらになるのでしょうか。

おそらく「自分と向き合うこと」だと思います。自分と真剣に向き合っているからこその表現が私にはできます。試行錯誤した結果をこうして表現しています。根っこには「自分が進んでやりたいと思うことをやる」という気持ちがあるようです。

「自分が進んでやりたいことをやる」生活の中にも悩みはあります。どの方向に進んでいこうという悩みです。ゲームには何を達成すればOKなど瞬間瞬間にミッションがあります。取り組むことが出てきます。しかしこれがリアルな生活になると「時間を持て余す」瞬間が出てくるのです。

以前は「時間を持て余す」と何だか心地よくないように感じて、街を徘徊したり、何か買ったり、気分で表現してみたりしていました。この行動にはパターンがありますが、一つのことを継続するというわけではないので、何だか「結果が出ないなぁ」と悩んでいました。私自身が前進していないように感じたのです。

どうしたいのか」考えている中で「自分と向き合いたい」「前進したい」と思っていることがわかりました。それでは何をすればそう思えるのでしょうか。思い返すと、私は周りからの評価があると「自分と向き合えている」と感じました。「前進している」と捉えられました。そのためひとりでじっくり自分の中で対話を重ねるということをしていなかったように思います。

この自分の気持ちを書いている記事さえも「誰かがイイねを押している」ことで読み返します。過去に書いた私の記事は自分から読み返しません。どうしてなのでしょうか。

一方で見返すものがあり、「私が気になっている」ものを集めたスライドです。私は気になっているモノを集めたスライドを作っており、そこに気持ちや絵などを貼り付けています。それだけは見返すのです。

見返すものとしては、主観で作ったグラフなどはだめです。自分史のようなものです。自分の主観が入ったものは見返したいと思いません。それは当時の自分のリアルな状態と再び向き合うからです。対して気になった場所やコンテンツを写真で集めているものはよく見返します。自分はこれに興味があったのかと当時の思考回路をありありと思い出すことができます。

「自分と向き合う」にあたり、見返すものと見返さないものの違いは「エゴが入っているか否か」のように思います。言語化すると、どうしても「エゴ」が入ります。しかし絵や写真、好きな音楽においては「エゴ」がありません。「トキメク」と思ったからこそ集めています。時が経ってから見てもいいなと思ったものは良いなと感じているのです。

私は「自分と向き合う」上で「エゴ」を見たくないということがわかりました。どうしてここまで「エゴ」に執着しているのでしょうか?エゴにもメリット、デメリットはあると思います。ここからはおそらく「思い出したくないこと」や「イメージしたら現実とのギャップにがっかりすること」も含まれてきて、自分にとってはしんどいかもしれませんが、少し考えてみようと思います。

私のエゴは「家族を楽させたい」、「自分が楽しみながらもサラリーマンと同等以上に稼ぎたい」ということです。家族の話からすれば、家族は毎日一生懸命働いています。そんなに大変なら緩めればいいのにと思うのですが、「今は頑張りどころだから」と気を張り続けています。「最近はお金を使うのを抑えるようになった」と話す姿を見たりすると、「そんなに制限せずに心地よく生活して欲しい」と思う私がいます。家族が四苦八苦する姿に心労が溜まるので「楽になってほしい」というエゴがあるのです。

それではどうして私は「家族」に対してそんなに執着があるのでしょうか。家族も他人だからなるようになる程度に捉えていれば、こんな気持ちにはならないはずです。私の中ではおそらく「自分が頑張らないと家族は家族として機能しなくなる」と考えています。現に私をよく知る人は私のことを「家族のバランスを保っているよね」と語ります。自分でも「そうだな」と思うのですが、こんなにも「気を張って頑張らなくてもいい」のかもしれません。関係が近くなることもあるし、遠ざかることもあると捉えているので良いのだと思います。ずーっと仲良しというわけにもいかないでしょうから。

すると私には一つ守るものがなくなりました。家族という執着を手放すと、自分には責任がない、他人を変えようとしても仕方がないと少し極端ですが考えると、気を張っていなくても良いとなるのです。すると残るエゴは「自分が楽しみながらもサラリーマンと同等以上に稼ぎたい」ということです。これは手段を選ばなければいつでも実現可能だと思うので、結局何をしていくのかという初めのテーマである「私はどうしたいのか?」という所に行き着く気がします。

きっと試していくしかないのでしょう。おそらく私の取る選択は「カラダとココロを大切にしながら生きているあり方」です。はっきりとした結論は出ませんでしたが、時がきたらきっとえいやと決める自分がいる気がします。今日はここまでにしようと思います。

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