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飽きっぽい人 好きなことがない人

何かと飽きっぽい人がいる。何かを取り組んでみても、ある程度すると満足する。周囲は飽きっぽい人の好きなことが何なのか分からない。本人も好きなことが何か分からない。自分でも次に何が興味が湧くか分からない。また、一度経験したことを再度やることは少ない。同じ分野でもなにかする時は以前とは何かしら違うことを選択する。

例えば、ゲームであればエンディングまで無難に行けばいい。最後まで行かなくても、大体こんなノリの世界観と分かればやらなくなる。
本屋さんに行けば、興味のある本がない。どこかどれも同じに思えてしまう。表紙が変わっているものが目に入り手に取るが、パラパラとページをめくりどんな感じがその人なりに分かったら再び元に戻す。この時、特に文字は追っていない。使われているフォントや文字の大きさ、空間や余白、挿絵からおよそどんな本かを理解する。
スポーツをすれば、とりあえず基礎ができるくらいまではやる。テニスであれば打ち合いができるくらいにはするし、マラソンであれば大会で走り切れるくらいにはする。

しかし、継続しない。

漫画を手にとれば、取り急ぎ高評価のものを選択する。動画も同様である。ストーリをそれなりに楽しみ、感動したり、笑ったりもする。しかし、ずっとできるか、好きなこと、趣味かと言われればそうでもない。定期的に行うわけではないし、次にいつ気が向くかは本人には分からない。

こういった人には、好きなことをやりなよ、という言葉に困惑する。

好きなことが分からないからだ。人に自分を紹介する時は多趣味で付き合いで、そういえばそうだな、先週は釣りに行ったよなどと話す。かといって、人付き合いが好きであるかと言えばそうでもない、自分から誘うことはないし、誘われれば行く。興味がないこともあるが、行ってしまえば、時間がすぎるのは早く、なんやかんや満足するため断らない。
好きなことがないが、それなりの生活をしている人は多い。雑誌を見れば、あ、これ欲しいなと思うものもあるし、見つからない時だってある。

飽きっぽい人は、実は誰よりもバランスの良い性格をしている。何かにふとエネルギーを注ぎ込むこともあるし、特に何もせず、今日は近所を散策して終わったな、と思うこともある。ひとりでゆっくりお茶を飲んで、コーヒを飲んで一息ついていることもあれば、周囲ともそれなりに付き合って今日はエネルギー使ったけど充実してたなぁと思う日もある。

飽きっぽい人が、好きなことがないのは、熱中した時の失うものが始めた時から分かるためである。例えば、自然とストップをかける。誰よりもバランスがよくて実は冷静である。雑誌で魅力的な商品が掲載されていても、これは100円均一ショップのあのアイテムで代用できるわなどと、自分の身丈で工面する。

世の中には、個性的な人が多くメディアに出たり、お金を稼いだりする姿がしばしば見られる。しかし、こういった人はごく少数で、多くの人は日常に何か意味を見出すわけでもなく、落ち着いて過ごしている。

こういった人は全く焦る必要はない。今は飽きっぽくても、何か守るものがなくなったり、時間が取れる、休息が取れるようになると、自然と好きなものが見つかる。

いやいや、そうは言いましても、いつも一応8時間くらいは寝ていて、とても健康的ですし、工面すれば3時間くらいは時間作れますけれども?という人もいるかもしれない。学生であれば、親は自由に選択して良いよと言ってくれているけれど、どうもやりたいこと、好きなこと、熱中できることができなくて困っていて、もうすぐ進路を決めないといけないのだけれども?という人もいるかもしれない。

それでも再度言うと、好きなことー熱中できることは自然と見つかる。見つからない場合は、仮面に囲まれて、元々の自分ではない自分になっているか、充分に休息できていないためである。

なお、仮面とは何か不機嫌な人のことを指す。自分の甘えが満たされていなくて、人で満たそうとする人である。満たされない気持ちは、誰かを思い通りに支配しようとしたり、無理に変えようと誘導してきたり、恩着せがましかったり、嫉妬深かったり、被害妄想があったり、自意識過剰で攻撃的出会ったり、回避的であったり、冷酷出会ったり、迎合してきたり、評価してきたり、虚栄をはってきたりする。仮面をつけていない人は、無頓着で子供のような人である。過去や未来に囚われず、今を生きて、相手をあれこれ決めつけたりしない。

好きなことができると、それまで想像していなかったところに自分を運んでくれる。それはかつて自分が憧れていてイメージしたものと、形は違うけれども、性質は非常に近いものであったり、これまで予想だにしていなかった世界であったりする。そこは非常に穏やかで、満たされる世界である。





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