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1回やり始めたからと言って、やり続けなければいけないわけではない

 意を決して始めたけれども、なんだか意識しないと続けられない場合があります。たとえば学生なら英単語を覚えること、サラリーマンなら運動すること、資格を取ることなど人によって様々です。色々と考えた結果初めてみたけれども、頑張らないと続かないことがあります。そうして理想通りでないと罪悪感を抱く人がいます。

 私がこのところ罪悪感を感じたことは、購入したお絵描きタブレットを使えていないことです。元々絵を描くのが好きなので購入したのですが、せっかく購入したのに、使い方に慣れて使いこなせるところまで来たのに、当初の狙いである絵を描けていないのです。描こうと思うと、描くことを意識しずぎて描けないのです。時にはどんな絵を描こうか考えてから描こうとしてみますが、全体を考える頃には脳が飽きていて描こうと言う気になりません。それでも描こうと思っても何だか楽しくありません。そうして絵が描けずに、せっかく買ったのに使えてないなと罪悪感に苛まれていたのです。その変わりと言っては何ですが、購買意欲が強くなっていました。出かければTシャツやセータを購入します。服は充分に持っているのに、デザインや質感が好みだからと買って帰る自分がいたのです。

 私はこの自分の行動を振り返って「何となく不安を抱いているな」と思うに至っていました。理論は飛躍しますが私は「ある特定の人から愛されたい」と思っています。たとえば「自分が興味の趣ままに表現したものを周りがイイねと言ってくれて、再び表現できる環境」をイメージすると私はとても安心します。しかしこの「周り」が誰でもいいというわけではないのです。「ある特定の人」がいいのです。

 たとえば私はパーソナルトレーニングに通っています。パーソナルトレーニングでは専属のトレーナがついてトレーニングします。そこでストレッチや筋トレをするのですが、運動という表現をしてでもがイイねと言っても、満足しないのです。なぜならAと質問したのにCのこたえが返ってくることがあるからです。質問と逸れたことを言うのです。私はかつては理系の研究職に携わっていたので、周りは比較的Aを質問するとAをこたえる人に囲まれていました。ですがそのような環境から離れると、Aの質問を勝手に解釈してBやCのこたえ方をする人がいました。「今日は雨が降るかな?」と聞いたのに「明日は外に出かけようと思っているんだ」というこたえが返ってくる感じです。トレーナさんは限りなくAはAとこたえるタイプなのですが、たまにAがBやCと返ってきたので「あっ」と思っていました。そのちょっとしたやり取りでこの人は思い込みがある人だと判断しているのです。このような人にイイねと言われても私は満足しません。そこには自分の思い通りに事が進んでほしいという理想があります。私は神経質になっているのです。面倒なことに巻き込まれることに心底不安を抱いているのです。

 会社では限りなく理想に近いことができていました。仕事で自分が新たに発見したり生みだすモノを周りはイイねと評価しました。周りはAはAと捉える人でした。勝手な解釈をしない人です。しかし会社では「自分が興味の趣ままに表現したもの」を生み出してはいませんでした。会社には進む方向性があって、その方向性に意図的に合わせたモノを私は生み出していました。自分が興味の趣ままには動いていませんでした。ただ周りの状態を察する、期待にこたえるという点でずっと不安を抱えていました。忖度がある世界で行動しても私は満たされなかったのです。

 そうして「自分が興味の趣ままに表現」できる環境であるフリーな状態となりました。そうして毎日気ままに好きなことをして過ごしているのですが、罪悪感を感じていたのです。1回やろうと思ったのに、続けられていない自分を責めていました。お絵かきタブレットで絵を描こうと思っていたのに、何だかやる気が湧かなくできない自分、理想ではない自分と現実のギャップから、心理的負担から、購買欲に走っていました。

 どうして1回やり始めたからと言って、やり続けなければいけないと思う心理が働いたのでしょうか?それは一度決めたその方向に進まないと結果は出ないと思い込んでいるからです。継続は力なりと思い込んでいるからです。結果を出さないといけないと意気込んでいるからです。結果は無理をしなくすれば勝手についてくると心から思えていない証拠です。

 問題はやり続けられないことではなくて、勝手に自分を責めるような罪悪感を抱く思考パターンです。この思考パターンをなくすには自分に言い聞かせ続けるしかないでしょう。そっちに行っても負のスパイラルの中に居続けるだけだと、仮面に囲まれるだけだと、執着や囚われの世界に戻るだけだと、避けがたい困難がある方向にいくだけだということをです。

 私がなぜ恵まれた職場を去ったかと言えば、私自身がより満たされるようになるためです。不安な人から安心している人に変わるためです。私はかつては安心している人に囲まれたので、その人たちの特徴を真似して私も実生活で真似してみているのです。安心している人の特徴は「休むこと」「理想を抱かないこと」「意欲のままに取り組むこと」です。私は「休むこと」と「意欲のままに取り組むこと」は比較的でき始めましたが「理想を抱かないこと」はまだまだできていません。

 罪悪感を払拭する方法は2つあります。1つは思い込むことです。強い言い方をすれば洗脳です。考えるのをやめるのと同意です。過去にした判断は変えられないから、それ以上考えるのはやめるのです。2つ目は罪悪感が生じている原因を考えて解決していくことです。私の場合はお絵かきタブレットを買ったのに、できてないなと心のどこかでソワソワしていました。心理的に引っ張られていたのです。お絵かきが好きなのは確かだけれど、買ったけど気張ってしまう自分がいます。その気張りは自然なものなので、気張らないようにしようなどと思わなくて良いのです。理想通りではないのは確かですが、別にやらなくても良いのです。考えるのをやめるのです。1回やり始めたからと言って、やり続けなければいけないわけではないわけではないのです。

 おそらくこう捉えることで、一時的に心理的ストレスはなくなるでしょう。しかしやろうとしていた時間がフリーになるので、次は何をしようか悩む自分が出てくるでしょう。その時は自然とできることをすると良いのです。私の場合は「ある特定の人から愛されたい」というさらに根底の不安から購買欲求に走るかもしれませんが、別にそれでも良いのです。

 私が「ある特定の人から愛されたい」と思うのは、夢中になれるものが見つかっていないからです。気ままに取り組んでみて、夢中になれるものが見つかったら、何か買わずとも満足しているでしょう。お金を使うことに不安を感じたり、AをAと捉えてほしいという自分をありのままに捉えてほしいという甘えの欲求が出ていますが、それでも良いのです。全ては「面倒なことに巻き込まれるかもしれない」という不安からきています。お金を使ったら生活に困るかもしれない、また身を削って働かないといけないかもしれないと不安に思っているのです。この不安を払拭するための要求が私の場合は「ある特定の人から愛されたい」という形で出ています。面倒なことには生きていれば巻き込まれるかもしれないから、そこに理想を見出すのではなく、「ある特定の人から愛される」ことで心の不安を解消しようとしているのです。

 固定概念をなくすには「休むこと」「理想を抱かないこと」「意欲のままに取り組むこと」です。これは安心している人が自然とやっていることです。「理想を抱かないこと」が最も難しいかなと思いますが、理想も不安があるから湧いてくるのです。「固定概念」、「こうしなければいけない」、「ああしなければいけない」、「そうしないとうまくいかない」という思い込みがあるから理想が出てくるのです。

 しかしこの囚われのある思考こそが自分が一番恐れていることに自分を近づけていくのです。私は固定概念を外すために「休むこと」をしてそうして湧いてきたやってみたいことに従うことです。「意欲のままに取り組むことをすること」です。エゴのないその意欲に従えば、全てを解決する状態に至る事ができます。問題は1回やり始めたからと言って、やり続けなければいけないわけではないところではないのです。

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