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認識を言葉にするー好きの捉え方

安心している人は初めに自分について知る。次に社会との自分を知っていき、より満たされるようになる。今日はそのプロセスについて語っていく。

安心している人の感覚は2つの状態に分けることができる。1つ目は自分と社会の関係性を認識する”アイディンテティ”を得る状態だ。アイディンテティとは広辞苑によると次のようにあり、ざっくり言えば社会に対する自分の位置付ける認識のことだ。

❶ 自己が他と区別されて、ほかならぬ自分であると感じられるときの、その感覚や意識を言う語。自己同一性。自我同一性。
「━の喪失」
❷ 組織体で、それを他と区別し特徴づけるもの。独自性。
「企業の━」

安心している人はアイディンテティが確立されている。しかし、この状態となるのは2の次である。それでは初めになる状態は何か。それは自分の中での感じ方を整理できている状態である。筆者が知っている言葉の中では内観や内省が最もそれを指すに近いとも言える。広辞苑では次のように説明されているが、正直わかりにくい。そこで、安心している人の自分の状態をかえりみている状態について語っていく。

ない‐かん【内観】
①〔仏〕精神を集中して心中に自己の本性や真理を観察すること。また、その修行。
②〔心〕(introspection)自分の意識体験を自ら観察すること。内省。
ない‐せい【内省】
①深く自己をかえりみること。反省。「冷静に自己を―する」「―的」
②〔心〕(→)内観に同じ。

安心している人が”私は和風の曲が好きなんだ”と言ったとしよう。安心している人は和風の曲が好きとわかったのは、ロックな曲やクラシックの曲を聞いて、どれが心地よく感じるか比較しているわけではない。つまり何かと比較して好きだとわかったのではない。同じ粒度のものと比較したわけではない。相対的に捉えて好きとわかったわけではない。安心している人は絶対的に捉えて好きだと認識できている

そうたい‐てき【相対的】
物事が他との比較において、そうであるさま。「―な捉え方」「―にレベルが低い」↔絶対的。
ぜったい‐てき【絶対的】
何物とも比較したり置き換えたりできず、また、他からどんな制約もうけないさま。「―な権力」↔相対的。

それでは絶対的に物事を捉えるとはどういうことか。ペットを飼っている人はわかりやすいかもしれないが、ウチのペットと他の家のペットは比べることはできないのではないだろうか。筆者の場合は”れーれ”という名の黄色い生き物を飼っているのだが、”れーれ”は”れーれ”だ。地球上で”れーれ”と同じ種類の生き物は存在しているが、それと比較することはできない。筆者は”れーれ”を独立して認識している。他のもので代用がきくなんて話ではない。それは唯一無二のものである。なお、”れーれ”はオカメインコという種類の鳥だ。同じ鳥であるスズメやカラスと”れーれ”は比較できないし、同じオカメインコである日本産のオカメインコやオーストラリア産のオカメインコと比較することはできない。相対的に見ればスズメやカラスとれーれは鳥という粒度で比較できる。もっと粒度を細かくしてオカメインコとしても比較できる。相対的には。しかし、安心している人の認識はこのような相対的な形ではない。絶対的な形である。

絶対的に捉えるとは、対象に対して勝手な解釈を加えないことである。例えば目の前に笑っている女の子がいるとしよう。すると人はこの女の子はご機嫌なんだなと思う。これが勝手な解釈である。見た目からはご機嫌であるかどうかわからない。実は女の子は最愛な人を亡くし、悲しくて悲しくて仕方がないが、その場では笑おうと決めて笑っているかもしれない。その女の子はご機嫌ではない。ご機嫌であるという認識は勝手な解釈である。他の例にいこう。次は和風な曲についてだ。和風な曲にはそれを成り立たせるためのルールがある。笛や和太鼓が利用されていて・・・メロディは・・・、コード進行は・・・などといったことである。和風な曲を絶対的に捉えると、これらの基準に当てはまっていなくてもいい。そもそも、和風な曲とは〇〇の条件に従うこと、などといった定義やルールはないのだが、音楽の世界ではメロディ、コード進行、利用する音などをある法則に則るとそれは和風な曲に変わり、ロックな曲に変わり、クラシックな曲に変わる。素人な場合はそのなんとなくな特徴で和風、ロック、クラシックと分類することができる。作曲家はその法則を理解しているので、要求されればいかなるジャンルの曲でも作れる。人とコミュニケーションする時は、単語にはそれを意味する条件があり、”和風”という単語一つでもそれを成り立たせる条件がある。絶対的に捉えるとは物事を自分の知識や社会のルールに基づいて適用しないことである。曖昧な言葉を使えば”物事をありのままに捉える”となる。条件をなくすということは、これまでは和風を指していたものが和風ではなくなる。和風を構成していた境界が曖昧となる。人と話す時は絶対的に捉えると会話が成り立たなくなる。相手は和風の曲を相対的に捉えて、条件をもって、境界を明確にしてコミュニケーションをする。自分も相手と同じ定義の中でキャッチボールをしないと噛み合わなくなる。自分は和風を赤いりんごのことだと捉えて話て、相手は和風を日本っぽいものと捉えて会話したら成り立たないように。わかりにくくなったが、安心している人は自分の好きなものを絶対的に捉えている。それは自分の経験や憧れているものやお気に入りなものを組み合わせて”好きなもの”として成り立っている。例えば、お母さんが好きだから自分も好きなはずだと勝手な解釈を付け加えない。それは社会から見た自分の傾向であり、本当に自分が好きであるかはわからない。自分の好きなものは他の人には理解し得ないもので成り立っている。例えば筆者が先程の黄色い塊の”れーれ”について、それを構成する要素、私にとっての事実を語るならば、れーれは#太陽、#ひだまり、#おにぎり、#腐ったラーメン、#アマゾンの箱、#卵焼き、#オカメインコなどである。どんなに単語を並べたとしても”れーれ”を定義できないし、語り尽くせないのであるが、それが安心している人の好きなことの捉え方である。その構成される要素は無限に連なっている。

絶対的に捉えるとは、エゴがないことである。例えば目の前に笑っている女の子がいるとする。絶対的に捉えると自我がない。そこには狙い、目的、効果がない。女の子がもっと笑わないかななどと思わない。他にも和風な曲が好きと捉えている時、その思想の中には和風な曲で多くの人が幸せにならないかななどと言った想いは入らない。他の人は幸せになるかどうかは、和風が好きな自分にとって計り知れない。社会でどうなろうが自分の知る由ではないということである。これは無責任と思うかもしれないが、物事は支配できない。全員から好かれようと思っても人の想いは人それぞれであり、それが叶わないのと同じである。もちろん、人は効果を狙って行動できる。例えば笑っている女の子を泣かせようとして、思いっきりぶったり、暴言を吐くことはできる。しかし、女の子は笑顔でい続けるかもしれない。こちらの狙い、目的通りにならないかもしれない。そのようなことに執着しないことだ。ほっておくことだ。これは諦めるのではない。つまり、どうなろうとその効果を期待しないことである。筆者の好きな”れーれ”であっても、れーれが人のように歩いたり、話したり、常に同じ時を過ごすことを想ってもそれに執着しない。独立したものと捉えることで、自分の想いにエゴはわかない。

安心している人が自分について知る時、物事を絶対的に捉える。そのために何か能力をつけたり、情報を整理したりしなくていい。ある程度、ロジカルシンキング、つまり論理的思考能力を持つ人が、自分の好きなことと捉えられることを主従関係をつけたり、分類、整理させたりすると、物事を絶対的に捉えられることに繋がる。しかし、この能力にもコツがいるので、そのやり方に習えない人が真似してやってみても、鶏卵問題、つまり鶏が先か卵が先か、卵と鶏のどちらが先に誕生したのか結論が出ず、矛盾する問題や相反することの中を堂々巡りすることとなる。

自分の中での感じ方を整理するためには、何もしないことである。紙に自分の気持ちを書き出すといったことはしなくていい。筆者はマインドマップは物事を絶対的に捉えられる手段の一つであるとは思うが、これもしなくていい。ただぼーっとしてみることである。すると、初めのうちは自分の経験したことを思い出したり、将来の不安なことが思い浮かんだりする。そうであっても、その考えからあれこれ派生して考えることなく、何も考えてない状態を継続することである。初めのうちは何も考えていない状態すら分からず、エアコンの音が気になる、外の車の音が気になるなど、頭の中が忙しいのであるが、そのうち静寂というものがわかるようになる。これは、その瞬間わかるのではなく、後から思い返してみると、あれが静寂だったのかな、何も考えてない状態だったのかなとわかる形である。それを続けていると、ふとやってみたいことや気になることがイメージされる。それをやってみた先で自分にとっての特別なこと、好きなことがだんだんとわかってくるようになる。それは絶対的に捉えていることである。安心している人になっている。


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