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エゴをなくすことを意識した結果

久しぶりにこのページを開いています。ここ最近の私について語っていこうと思います。

エゴなく生きていこうと意識して、ここに来てエゴがなくなりました。そう自覚しだしたのは、家族の影響です。私の家族もこのnoteをやっています。フォロワーを増やし、ある分野の記事を書き、最近ではアフィリエイトまでも始めました。

最初はその急成長していく姿を誇らしく思いつつも、焦っていました。比較していたのです。意外にも嫉妬している私はいませんでした。家族のやっていることを羨ましいとは捉えず、自分はさてどうしようかなという形の感想を抱いたのです。

嫉妬しない自分を見て「エゴがないな」と感じました。理想、目標がないのです。以前から理想を立てていない、目標がないなと感じてはいました。ただこの家族の出来事を経てハッキリと自覚した形です。

話は変わりますが、世の中には「フロー」という状態があります。集中して時間が一瞬に感じたり、周囲の音が聞こえなくなるような状態です。スポーツをやる人はゾーンに入ると言いますが、かなり集中している状態と言えます。フローは「目標」がないとなりません。これを言い換えると「挑戦」と言ったりするのですが、自分がどうすればベストを出せるのかイメージしている状態を目標や挑戦と呼びます。

私はこのところ人生における目標や理想はありませんでしたが、フロー状態には入っていました。ゲームをする上でフローに入るのです。その都度その都度何をすればいいのかイメージできます。能力と挑戦が釣り合っている状態で、パフォーマンスを出すことができます。人生におけるエゴはなかったのですが、ゲーム内では「こうしたい」「ああしたい」といったエゴがありました。将来に対するイメージを持っていました。

ゲームは一通りやるとエゴはなくなります。それと同時にそのゲームをやらなくなります。そうして他の意欲が湧くことを取り組むという流れがこのところの私の状態でした。

そうして今の気持ちをココに書き連ねている所なのですが、このところエゴなく生きる生活ができていました。以前は続けてきたのだからと毎日自分の状態を観察していました。それも家族の活躍やゲームに集中することでなくなり、自分の観察もやめました。やめている最中はこんなに楽でいいのだろうか?自制心はなくならないだろうか?などと考えていました。現に自分の観察をしていない中では友達の結婚式や実家に帰るなどのイベントがあり、正直お金を使いまくっていました。それに後めたさを感じたりもしましたが、こんなに自由に楽しめることもなかろうと自分なりの心地よさを追求していました。

私はかつてエゴをなくすためには「アタマとカラダを空っぽにすることだ」と主張していました。これは今も変わっていません。今の私はエゴがない状態です。それでは「アタマとカラダを空っぽにしたか?」と問われれば「したかもしれないな」と思うのです。心当たりがあるのです。それについて少し語ろうと思います。

アタマとカラダを空っぽにしたことは4つあります。1つ目は運動です。リングフィットアドベンチャを毎日続けること早いこと1ヶ月程度経ちました。毎日やっているだけあって、以前は昼間に眠気を感じて昼寝をよくしていたのですが、これはなくなりました。エネルギーを使っているのに、なぜか疲れにくくなったなと感じます。そうした運動をしている時はアタマが空っぽになっています。カラダを動かすことに集中しているのです。画面にゲームの映像が流れているのですが、見ているようで見ていません。ただ無になって動いているという形です。その時はゲーム内の指定の運動をしようと意識しているはずなのに、私の感覚としては「無」なので、なんとも表現しがたい状態です。

2つ目はゲームです。リングフィットアドベンチャもゲームですが、カラダを動かす以外のゲームでも集中するとアタマが無になっています。特にRPGでこの状態になりやすいなと思います。ゲームをしているとサラリーマンの頃のように1日があっという間に過ぎていきます。たとえるならば、サラリーマンの頃は周りの人や組織に対する気遣いで心労が多い集中した状態だったのですが、その心労をなくした形です。学生の頃のようにまっすぐ集中できています。そこに何か偉くなろう、能力をつけようという意識はありません。対象を純粋に楽しみ、エネルギー循環が良いという形です。思えばサラリーマン時代でも忖度がない頃はこの形だったので、環境によるのではないかなと思っています。

3つ目は睡眠です。私はこのところ以前よりも眠りが深くなりました。以前から深い方だとは思っていました。夢は見ませんし、23時半から6時までたっぷり寝ています。ただ、以前は寝付きが少し悪かったのです。家族の寝息を聞いているうちに寝ているという形だったのが、最近ではそれを聞いていません。つまり横になってすぐに寝ているのです。朝は自然と5時45分くらいに目が覚めます。ただ外が寒くなってきたこともあり、しばらく布団にくるまっているという形です。寝ている時は夢を見ません。以前は夢を見ていました。頼りになる優しい人に愛されて優しくされているような夢です。この夢は意識してみているところがありました。イメージしている中でいつの間にか寝て夢になっていて、イメージの中で愛でられているのです。初めは自分でイメージしていますが、途中からは夢なので予想外の展開が起こったりします。そのイメージを起きてからも覚えているので、眠りが浅いなと思います。長くなりましたが、以前は自分の癒されるイメージの中にいたのでアタマを空っぽにするという形ではありませんでした。対して最近ではそのようなイメージをせずとも眠りにつくので、自分自身が満足しているのかなと思います。

最後となる4つ目はカフェで暖かい飲み物を飲むことです。暖かい飲み物を飲むとき、深い呼吸をしています。私にとってはこれが一番リラックスしています。人によってはお風呂に入ると無になるという人もいるでしょう。お手洗いに行っている時に無になる人もいるでしょう。私の場合はカフェでした。家でもなくカフェだとリラックスできます。家だと自分が未完了のままにしていることが気になってしまいます。たとえば新しく買った靴のゆるさ、衣類の整理ができていないこと、机のちょっとしたグラつきなどです。机は整理されていますが、横にあるモノによって集中が削がれているように感じます。しかし便利なのでその形を選択しているのですが、どうしようか悩みます。家をホテル化しようとかなりホテルに近くしてきましたが、本当は「何もない」くらいが最もリラックスできるのかもしれません。こうして私はカフェで暖かいお気に入りの飲み物を飲むことで「アタマとカラダを空っぽ」にしています。

私はかつて「アタマとカラダを空っぽにする」ことは床の上で寝そべって呼吸をすることだと思っていました。ヨガや瞑想に近い状態です。しかし私にとってはこれはあまり自然ではありませんでした。習慣化しませんでした。寝そべると気持ち良いですが寝てしまいます。意識を無に持っていくようにアプローチしていくのは、ある程度のノウハウや能力、慣れが必要だなと感じていました。私はできないからと言って無理にできるように頑張ったりはしませんでした。その代わりに私が自然とできること、ゲームや運動を取り組んだという形です。無理をしなかったら、ただ流されていたらそこに行きつきました。

私はこれまで本当に無理をして生きてきました。家族を守ろうと、自分を守ろうと必死でした。周りにこたえようと、活躍しようと必死でした。なりふり構わず、結果を出そうともがいてきました。その甲斐があって行き着くところまで行ったと思います。そうした自分を誇りに思っていますし、かつての自分が憧れた世界のリアルさを肌身で実感できてよかったと感じています。これを頂上まで行き着いたと認識した瞬間に下山しました。自分を労る無理をしないあり方にチェンジしました。

無理をしない生活も最初の頃は大変でした。昼間に外に出るだけで違和感を感じます。サラリーマンの時は昼間に街をぶらぶらするなんてないからです。土日とは違う人の流れに戸惑いました。街に出たら会社の人に会うのではないかと怯えていました。焦っていました。全てに不安を感じていました。この状態は2週間くらい続きました。今年の3月の頃です。

それも次第に慣れてきて、ゲームに集中するようになりました。しかし集中しても没頭しているという形です。止めることを知りません。将来のことを放棄してただひたすらのめり込みます。1ヶ月は続いたでしょう。今年の4月です。

次にこのままではいけないと自制する自分が現れました。サラリーマンの時に憧れていた、フリーになったらやろうと思う姿を体現するようになったのです。その時期に始めたのがこのブログです。初めは自分の考えていることを書きました。書くことに慣れないながらも、自分を表現しました。この頃はまだサラリーマンの感覚が残っており、何かのテーマで書こうとする自分もいました。反面、自分らしく、より満たされるようにと自分を出していきたいという想いもありました。それらを言葉として次々に残していきました。この時期も1ヶ月程度続きました。

次に何もしたくないという姿が顔を出しました。燃え尽き症候群とでも言うのでしょうか。ただひたすら眠く、なんとも意欲が湧きません。10時から11時、13時から17時までずっと寝ています。寝ても寝ても寝れます。今振り返るとなんとも不思議な状態です。雨季ということもあるかもしれませんが、1ヶ月は抜け出せませんでした。5〜6月の頃です。

そうしているうちに、なぜか新しいことをやってみたいと思う自分が現れました。私の場合は考える前に、やってみていました。たとえばちょっと小耳に挟んだことのあるスマホのアプリをインストールしてやってみるという形です。他にもサラリーマンの時に時間ができたらやってみたいと思っていたことを衝動で始めました。エステやマッサージ、ジムです。また街に勢いで出かけて自分に合っていると思うものを購入しまくりました。今思いかすと自分を刷新していっているかのようです。この時期は他に比べて少し長く、2ヶ月程度は続きました。今年の7〜8月ですね。

こうして夏から秋に差し掛かりました。秋は無理をすることをやめていきました。これまで新たにやったことをやめたり、自分の居場所を意識した頃でした。「より満たされるように」とずっと意識してきましたが、この頃が一番自分らしくなっていったのではないかと思います。目標、狙うことを辞めたのです。やりたいと思ったらやる、やらなくてもいいと思ったらやらない。それに良い悪いと意味づけしない、という形です。この頃はスマホにインストールしたアプリを消したり、通ったジムをやめたり会社を辞めるように動いたりしました。今思えば変わる準備という形です。今年の9〜10月の頃です。

そうして今、11月頭となります。これまでにない変化が起きました。なぜか友達が私に懐いているのです。最初は仲良くしているグループで話すという形でした。それが個人で連絡を取るようになり、最終的には会って話すようになりました。話す時もこれまではキレイに見せようと、弱みを見せなかった友達が弱みを見せるのです。心を開いてくれているなと感じました。なぜか懐いているなと感じました。嬉しく感じますし、子供の頃の自分の戻っているようだと感じました。おちゃらけてナチュラルにいる自分がいます。ボーイッシュかつカジュアルな自分が現れてよく笑います。そういえばサラリーマンの頃、ここ5年くらいは笑わなかったなと感じたのもこの頃です。対して今では笑顔が増えましたし、ボディランゲージも増えたと思います。友達には私が子供と接する姿を見て「接し方うまいね」と言われたくらいでした。私は「うちのペットさんと触れ合っているのと同じノリで接しているんだよ」と話すと笑っていました。親しみのある接し方ができる自分に変わっているなと感じます。

これまでにない変化は他にもあり「エゴない状態」です。これまではもっと心地よく感じたい、自分を労りたい、ありのままでありたい、自分を表現したい、稼ぎたい、認められたいといったエゴがありました。時には狙いや目標がありました。理想が出てきたりしました。それをその度になくすように努めたわけですが、今はなくすように働かなくなったのです。所感としては「楽」です。サラリーマンの頃の感覚を呼び起こせば、このまま転落していくのだろうか?のような感想をいたくこともできます。しかしそうではなく、なんとなく大丈夫だと思えています。今の自分は変わる準備をしているのだと感じています。

最近の私がやろうとしていることはこのブログを閉じることです。しかし閉じると気持ちを書けなくなることに寂しさを感じる自分もいるかなと思い閉じていません。ただ、もういいかなと思えたのです。新しい自分でまた気ままにやっていこうと思っています。他にも引っ越しを検討しています。今の場所はサラリーマンの頃の喜びも苦しみも詰まった場所となっています。ここよりも便利な場所は、立地が良い場所はないなぁと感じつつも移ろうとしています。移る場所は「頑張る人しかいない場所」か「ファミリー層向け」かで悩んでいます。私は当初は後者派でした。子育てなど今後のことも意識して落ち着いた環境を選ぼうかなと思っていました。しかしその想いから1ヶ月程度時間が経つと「頑張る人しかいない場所」もいいなと思い始めたのです。

今の場所も十分都心ですが、それよりも都心に行こうとしています。今の場所はまだ居住地域というものがありますが、次に行こうとしているところは、オフィス街です。周りには会社しかありません。大学もあります。そのため街を歩くと幼稚園、小学生という年代の子供がいません。いるとしても大人といった印象の場所です。私は正直「無職」とも言える身の上なので、最初の頃はこんなところに引っ越したら罪悪感や後めたさでしんどくなると感じていました。どちらかというとこのまま「楽」にと思っていました。しかし今は違います。家族が活躍している姿を見て、私もなんか波に乗りたいなと思うようになったのです。しかしこの「波」には理想や目標はありません。家族は狙うことなくどんどん成長していっています。その姿に沿うかのように私も自分が夢中になれることで得意になりたいと思っているのです。

環境を変えること「頑張る人しかいない場所」に行って自分が変わりきれるかは正直わかりません。今の自分のままグタグタしてグタグタもいいよねと肯定しているような自分かもしれません。そうだとしても、そうなったとしても環境を変えたり、見切りをつけることで、自分が変わっていけるかなと思っているのです。自分の意識を変えることは本当に大変だなとこの1年で痛感しました。今も痛感している最中ですが、場所を変える威力は絶大だなと思っています。

久々に自分の気持ちや状態を表現できて満足しました。私もより満たされるようにしていきたいですし、私の周りもより満たされることを想って。


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