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「笑顔」と「囚われ」と「勉強」

いつから更新していなかったのでしょうか。見てみると9日間ぶりでした。身の回りで起こったことや今の自分を書いていこうと思います。

後世に残す1軍のモノ

前回の更新は2021/11/17でした。水曜日。この日は私は生涯忘れることのない日になるでしょう。その日はおばあちゃん家を売却するために1軍なモノを取ってきた日でした。

今思い返しても大変でした。決められた時間の中で後世に残したいモノを選びます。また、来れなかった家族から言付けを預かったモノを見つけ出していきます。それだけではありません。しばらく人が来なくなるので、生モノを集めては処分するために、おばあちゃん家に来る時に使った車に乗せていきます。モノをまとめたり、割れ物は梱包したりする作業は引越しそのものでした。

引越しの方がまだ楽に感じました。「おばあちゃん家がなくなる」その事実も私はまだ受け入れられていませんでした。当時はそんな実感を持てず、目の前のことを何とかしなければという気持ちでした。今は事を終えてあの日行ったおばあちゃん家が本当に最後になるかもしれないということに寂しさを覚えています。大切な思い出がたくさん詰まった場所でした。家族が繋がっていた場所でした。

おばあちゃん家から持ち出したモノで一番良かったのはアルバムです。各部屋に置かれた何冊あるかアルバムを持ち出して、落ち着いた頃に開いてみました。するとそこにはおじいちゃんが赤ちゃんの頃の写真やおばあちゃんが高校生、女学校に通っていた頃の写真が出てきました。当然、娘であるお母さんの生まれた頃や幼少期の写真も出てきました。

もっと探せばあったかもしれません。ただ、おじいちゃんのアルバム、おばあちゃんのアルバム、お母さんのアルバム、おじちゃんのアルバム、お母さんたちの成長の過程のアルバム、お母さんの結婚式の時のアルバム、おじちゃんの結婚式のアルバムなどが見つかったため、一通り全年代の写真を確保できたと思います。今こうして思い出して書き起こしても、あの短期間で見つけられたのはラッキーだったと思います。

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いつものカフェにやってきました。これも久しぶりです。少なくとも2週間ぶり程度でしょうか。いつもの店員さんがいることに親しみを覚えつつ、コーヒを飲みます。「日常」だなと感じます。

「所属して働く」ということから距離と取って早くも半年以上は経ちました。最初は慣れなかったものの、今はこれが日常であると感じています。距離を取る前は「自分は立派な事をしている」という自負がありました。難しいことでしたし、今振り返っても大変だったと思います。自分を奮い立たせることのない自由な時間を今は「日常」だと認識しています。半年でだいぶ変わったなぁと思います。私の半年前の写真と今の写真を比べると違います。笑顔が一番わかりやすいです。とは言っても、笑顔な写真しか残っていないのですが、サラリーマン時代はなんだか目が死んでいます。口元も笑っていますが笑っていません。今よりもふっくらしています。別に健康そうなのですが、今の写真、つまりは今の私と比べると不健康そうです。

今の私は目が輝いています。笑顔も真っ直ぐな笑顔です。写真を撮るから笑ってはいるのですが、無理して笑っていません。以前も別に無理しているつもりはないのですが、一瞬を切り抜いた笑顔を比較するとその違いは明らかです。

笑顔で再び話が脱線しますが、ウチの旦那は私の笑顔で私の機嫌を読み取ります。疲れている、疲れていない、YES、NO、その全てを読み取れます。嘘をついててもバレます。私も旦那に対して同じことができるのですが、比較すると私の方が顔に出るタイプのようです。わかりやすいと言うのでしょうか。リアルでも笑顔から様々な事を読み取れるように、写真でも同じことができると感じた瞬間でした。写真は後世に残す1軍なモノだなと思いました。

お金持ちでも幸せとは限らない

話をおばあちゃん家の売却の話に戻そうと思います。その件について言及するならば「お金持ちでも幸せとは限らない」ということでしょうか。アルバムには昔の様子がありありと映し出されていました。中でも目をひいたのは「おじいちゃんの目の輝き具合」です。私の知らない「トトロ笑い」をしているおじいちゃんがそこには映し出されていました。

「トトロ笑い」とは今作り出した言葉で、「ジブリのトトロのようにニヤっと屈託のない笑顔をしていることです。私の知っているおじいちゃんは笑うものの、写真に映し出されているほど良い笑顔で笑っていませんでした。笑うものの、まぁ普通の笑い方です。「トトロ笑い」をしているおじいちゃんは「健康」そのもの感が溢れ出ています。まさに「子供のような笑い方」です。写真を見た私の家族も同じことを話していました。「こんなおじいちゃん見たことない」

一方でおばあちゃんはブルジョア感が否めない形でした。その時代サングラスとかワンピースあったの?と言ったら失礼かもしれませんが、今でも通じる格好をしています。印象的だったのはおじいちゃんとお母さんたちが海水浴に行っている時の写真です。お母さんはまだ幼稚園生といった所でしょうか。おじいちゃんたちは水着なのに、おばあちゃんは白のワンピースに日傘にサングラスでした。これを見た子育て中の家族は「おばあちゃん子育てする気ないやん」と話していました。それは強く表現している所があるかもしれませんが、その感じを汲み取れた一枚でした。

おじいちゃんたちは「お金持ち」な方でした。その証拠にお母さんは昔は家政婦さんが家にいたと話ます。写真に写っている車も「これは高級車だ」とわかる車でした。そんなウチのおじいちゃん、おばあちゃんたちが「幸せ」であったかと問えば「幸せ」だと思います。ただ、なんとなく「お金がないけど頑張る」としていた頃の方が「幸せ」なのではないでしょうか。

勉強しているか否かは顔に出る

余談ですが「勉強しているか否かは顔に出る」と思います。先週末、私は友人の家に旦那と泊まりで遊びに行ってきました。その夫婦は大学時代のバイト先が一緒です。旦那さんも同じアルバイトをしていたので、私たち夫婦と友達夫婦は大学の頃からの仲です。さらに言うと私と友達の嫁は小学校の頃の同級生です。何かと縁の深い友達なのですが、先週末はその家族の所にお邪魔しに行きました。

友人たちは大学を卒業してすぐに結婚しましたが、なかなか子宝に恵まれませんでした。長年の不妊治療の末、ようやく待望の第一子を得たわけなのです。私は赤ちゃんに会ったことがありましたが、ウチの旦那は初対面という日となりました。

そんな子宝にも恵まれて絵に描いたような家族の友達は不妊治療中に少し性格が変わりました。性格というのでしょうか、性質が変わりました。以前までは「無邪気」な形であったのに、長年の不妊治療の中で「トトロ笑い」をしなくなりました。どこか「囚われ」がある形となったのです。

印象的なエピソードがあります。友達が旦那さんと揉め事になった時に包丁をキッチンから持ってきて、ソファーに立てたことがあるそうです。私はこれを聞いて心底びっくりしました。友達は暴力的なタイプではありません。派手なタイプでもありません。ここで友達の生い立ちを少し話していこうと思います。

友達の実家は自営業を営んでいます。幼稚園です。親戚も総出で手伝っており今振り返ると規模の大きめな事をしています。同業者から見てもかなり成功している方です。それが分かった瞬間は友達の結婚式に参加した時です。友達は大学で幼稚園の免許を取った後は実家を手伝うのではなく、適当な幼稚園に就職しました。そのため結婚式にはその幼稚園の関係者も参加していて、スピーチを行ったのです。そこには「結婚式だから新婦をヨイショしているというわけではなく、本当に友達の実家が経営している幼稚園がすごいんだな」と思える内容が含まれていました。そのリアクションから「規模が大きいと思っていたけど、やっぱり大きかったんだな」と私は思いました。詳しいことは分かりませんが、幼稚園を複数経営しているところは大きめなようです。

そのような背景から友達は裕福でした。小学校の頃は気付きませんでした。それは友達がその背景を言わなかったためです。実家に遊びに行った時もその気配はありませんでした。友達の家の隣には同じく小学校の幼馴染が住んでいて、その子の親は普通のサラリーマンだったので、同じような感じだと子供心に思っていました。しかし、内情は違ったのです。

それが分かったのは大学になった頃でした。成人式に着てきた着物の立派さ、結婚式でのドレスの立派さ、友達のお兄ちゃんが留学までしてピアニストになっている所、大学の夏休みにエジプトに旅行しても、それをあまり周りに言っていなかった所などです。他にも思い返せば、友達は毎年の夏、冬と海外にホームステイに行っていました。着ている服がいつも流行のモノのことなどでもなんとなく感じ取っていました。

何不自由なく育った友達の性格はそれはそれは穏やかでした。競争の世界にいなかったとでも言えるでしょうか、誰かにいじめられたり、意地悪されたりということがなかったのでしょうか。いつも安心していて、明るくて、とても素敵な性格でした。全く陰口を言わない、そのようなタイプでした。

なお、その友達の隣に住んでいた同級生がいた、と書きましたが、その子は私と共に地元の中学校に進学しました。ちなみに、今回お家にお邪魔した穏やかな友達が中学受験して私立の中高一貫の女子校に進学しています。地元の中学は正直、少し荒れていました。厄介な火の粉が降りかかることもあるので、常に周囲を警戒している必要がありました。そのため、私と友達の隣に住んでいた同級生は、状況の変化に敏感になりました。別の言い方をすれば社会の成り立ちを知っていると言いましょうか。ここでは言及を避けますが、穏やかな友達は騙してくる人なんていないと捉えている形に見えますが、私と友達の隣に住んでいた同級生は「あ、この人はやばい人だね」と直ぐに見抜く勘所を得たという形が近いかもしれません。私と同級生は何かイベントが起こると、愚痴とまでは言いませんが「この人はこういうタイプだよね」と言うところがありました。詮索が得意とも言えるかもしれません。本人たちは知ろうとはしていないのですが、気づいてしまうのです。そのような気づいたことを話しているうちに「陰口」になっていることもありました。

友達はそもそも人の特徴に気付きません。いつも安心して「そうなんだね」と受け入れるようなタイプでした。そのため、そんな穏やかな友達が包丁をソファーに突き刺したと聞いた時は心底驚きました。私は深く関わっていた大学時代は、アルバイトを一緒にしていた頃はそのようなタイプではなかったためです。

実家が幼稚園を経営しており、その期待もあってか友達も大学で幼稚園の免許を取得しました。子供が当然好きだったのですが、自分がいざご懐妊しようとしてもできず、不妊治療に苦しむと、喧嘩で包丁をソファーに突き刺すようになったのです。しかし長年の苦心の末に子宝に恵まれたので、その性質は影を潜めました。ウチの旦那さんも昔に戻ったねと話していました。私もそう感じます。しかし、新たな一面ができていたのです。

新たな一面とは「勉強に対する執着」でした。友達は話します。「子供には自分で物事を選択できる人になってほしい」と。私と旦那さんは「ほう」と聞いていました。昔の友達は「健康だったらそれで良い」と話す人でした。本当にそう思っていて、触れ合っているだけで心地よい、それで良いと感じている人でした。しかし、いざ自分に子供ができると「もまれてほしい」と話すのです。

再び話は逸れますが、私と旦那さんは共通で経験したことは後であれこれ話す性質があります。例えば共に旅行に行けば「あそこの料理は美味しかった」「あの時のあの人は不機嫌だった」という形にです。今回も友達の家で一泊してアレコレ話ました。そこで分かったのは「あの家には自分たちで買ったモノがない」ということでした。

友達の家は持ち家です。つまり賃貸ではありません。結婚して子宝に恵まれない時期に購入しました。かなりの一等地にあります。普通のサラリーマンでは買えないような場所にあります。駅近で完成な住宅地です。幼稚園勤めの友達と普通のサラリーマンをやっている新卒の旦那さんに購入できるエリアではありません。そんな家には車があります。以前も立派な車でしたが、少しぶつけた際に新しい車に変わっていました。新しい車は高級車です。某ブランドの中でも更にワンクラス高いモノです。本人たちは今の家や車は中古だからと話しますが、バックグラウンドに何もない人が購入できるような代物ではありません。そのような生活をしていますが、友達は雑談の中で話します。

私はスーパーで65円のドリンクを見つけたら買おうか悩むのに、旦那は特茶(1本200円くらいする健康ドリンク)を買ってくるんだよね。なんか頑張っている自分何なの!?と思っちゃって」

私と旦那は話します。中古でも一等地に中古マンションや中古だけれども誰もが分かる高級車を購入する人が話す内容ではないよね、と。更に気づいたことをお互いにシェアします。「洗濯機は乾燥機能付きのすごく良いやつだったけど、以前からシャンプ、コンディショナ、ボディソープは変わってないし、庶民的なのを使ってるんだよね」

人に生活習慣を押し付けるつもりはありませんが、ある程度自由に使えるお金があると、消耗品や食べ物を良いモノにしようとする傾向があります。と言うよりも、必ずそういう時代があるのです。たとえば私たち夫婦は自分たちで自由に使えるお金があるので、ドラックストアで売っているようなシャンプ、コンディショナ、ボディソープ、歯磨き粉みたいなのを、少し良いものを使ってみようとします。私たち夫婦の場合は結局のところ大して変わらないねということで日用品はドラッグストアレベルに戻ったのですが、食べ物に関しては元の生活に戻りませんでした。つまり少し良いモノの方が美味しいし、健康にも良いと言うことに気づいたのです。しかし友達は話します。「旦那さんが健康に気を使って高いものを買うのが嫌だ」と。

お金にゆとりがあればそんな小さな話をしません。現に友達夫婦は一等地にマンションと車を買っています。そのような資産を持てる人が話すレベル感の話題ではないのです。お金で解決しているはずなのです。しかし旦那が使っちゃうということに悩む姿がそこにはあったのです。その話は続きます。「お酒に使うお金が....タバコに使うお金が....スマホ代が....」そのようなことに悩む人は最新の洗濯機なんて買わないと私と私と旦那さんは捉えていました。

「あの家には自分たちで買ったモノがない」。このことに気づいたエピソードは他にもあります。旦那さんが珍しく自分の寝室に私たちを入れてくれたのです。おうちでお泊まりはこれまでも何度かしていますが、リビングにしか入ったことはありませんでした。それが今回は寝室に入れてくれたのです。それは「新しい枕」を紹介するためでした。

旦那さんが紹介した「新しい枕」は珍しい形をしていました。肩の方までクッションがあるのです。首のところから頭のところにかけて1段高くなっています。肩から下のクッションは背中周りを楽にし、肩から上の頭のクッションは首を楽にし、この構造が寝返りのしやすさにつながっていました。旦那さんはどうやら健康に最近は興味が湧いたらしく、飲み物は特茶に、睡眠を深くするために枕を変えたようなのでした。旦那さんは語ります。

「これは嫁のお母さんが買ってくれたんだよ」

私と私の旦那さんは「へぇ、そうなんだね。こんな気の利いたプレゼントをしてくれるなんて、さすが嫁のお母さんだね。」といった雰囲気のリアクションをした気がします。ただ、後から旦那さんとこの話を振り返って話たことは「あれ?もしかしてあの家の全てのモノってもしかして嫁のお母さん側のプレゼントなんじゃないの?」ということでした。

嫁のお母さん、つまりは友達のお母さんたちは幼稚園の経営をしています。他にも気になることがありました。それは私たちが家から去る時に「お母さんのところに行くからついでに車で送って行くよ」ということでした。私の所感では友達は「普通」よりも頻繁に実家に帰ります。私が話を聞いている限りでは週に2〜3日は帰っているでしょうか。車で15分のところに実家があるという利便性もあるでしょうか。頻繁に帰っているという印象です。

子育てで歯医者に行く時や病院に行く時に面倒見てもらっていると友達は話します。それでも週に2〜3日も帰るでしょうか。私はその裏には「何かと必要なものを手に入れられる」という背景があるからではないかと思っています。勘繰りすぎているかもしれません。ただ友達の実家がポンと現金を渡してくるタイプではなさそうなのは、これまでの傾向を見て予想できます。潤沢な現金をもらえる裕福な家は、もっと違う「最近のハマっているコスメはコレ」だったり「今アソコのエステにハマっているの」という話をするためです。「1本65円のドリンクを買おうか悩む」という話はしません。

そんな友達ですが「もまれてほしい」という想いがあることが会話からわかりました。それは「子供には自分で物事を選択できる人になってほしい」と話す友達の姿があったからです。

私たち夫婦は有名な大学を卒業しています。偏差値も高いです。いわゆる「勉強してきた人」に分類されると思います。友達は私たちの会話を聞いて「頭の良い人の話し方するね」と言うようになりました。私はこれを聞いてびっくりしました。そんなことを気にしないのが友達の良いところだったのに「そんなことを気にするようになったのか」と思いました。

私は正直、友達は敷かれたレールの上を歩いてきたと思います。実家が幼稚園を経営してきて、暗黙の了解でそれを継ぐことを期待されてきました。そうして実際に友達は幼稚園の免許を取るに至ったわけなのですが、なんとなく嬉しそうではないのです。友達は子供好きです。少なくとも大学の頃は好きでした。しかし、今一緒に公園に行って遊んだりしている姿を見ると「もしかしたら子供を好きではないかもしれない」と思うのです。

この話を友達にジャブを打ってみたことがあります。しかし「そんなことない」と返されました。もちろん「嫌い」ではないことは知っています。ただ側から見ていると「自分で選択したい」という想いと「甘えてしまう」ところのギャップで悩んでいる感じに見て取れるのです。

「勉強に対する執着」が友達にできはじめていると書きました。これはおそらく実家の経営を任される上で勉強が大切と捉えているためかもしれません。少なくとも、これまでは社会のトラップのような所に気づきもせず話題にすらしなかったのに、それに気づきはじめている友達の姿があり、それによって「勉強に対する執着」ができはじめているなぁと感じたわけなのです。

話はまた変わりますが、私のお母さんは先生をしています。しかし昔は画家でした。おばあちゃん家を片付けているとアルバムが見つかり、その写真には画家の頃のお母さんの写真も出てきましたが、その姿は「勉強していない人だな」と娘の私からもわかります。ただ今のお母さんは「勉強している人」だとわかります。この違いはなんでしょうか。私は「笑い方」や「顔つき」で判断しています。勉強していない人はどこか冴えていない顔をしているのです。たとえば口元が無意識のうちに開いてしまったり、ちょっとポッチャリしていたり、運動していなそうだったり。そういう所です。

本当に勉強してきた人は勉強して見える世界を語ります。それはたとえば「文法が分かると正確に情報が掴める」だったり「この特性は三角形の面積みたいにどれかが良くなれば、どれかは劣る」だったり、かなりニッチな世界の見え方だったりします。人によってはニッチな具体的なことを抽象論にまで持っていけたりします。「これは劣等感からきている」という形にしたりすることです。勉強してきた人は勉強の面白さを語るというのもあると思います。ただ、勉強をしてきていない人は目の前の「計算がミスしている」「ひらがなが書けた」などスキルの部分に目を向けがちで、それで能力をジャッジする所があるのではないかと捉えています。

勉強しているか否かは顔に出ます。笑顔に出ます。ただ、勉強も机にかじりつく勉強だけではないのです。自分で気になった頃を調べたり、情報を集めたり、何かの特性としてまとめたりも勉強です。ただ、それをなんとなくやる人とフレームワークを最初から見つけようとする人、切り口を考えるに至るかは人によると思います。意識しないとできません。しかしそのようなちょっとした積み重ねが顔に出ると思うのです。目がキリッとして生気に溢れています。堂々としています。焦ることがあっても冷静に対応できます。目の前のことに流されません。

私は友達が囚われていく姿を傍目で見つつ「本人には必要なこと」だと捉えています。そうしてもがいてまた新しい姿になっていくのだと思います。執着や囚われが完全に「だめ」とは思いません。ただ、扱い方によっては厄介なことになる要素の一つではあると思います。

それはさておき、最近の私にはものすごくハマっていることがあります。それはボードゲームのウィングスパンというもので、Nintendo Switchからもソフトが出ていたのでこの度購入してやってみました。

ものすごく面白くて、この3日間は1日中寝食を忘れるくらいやっていました。何が面白いかと言えば「戦略」でしょうか。3手先くらいまでは常に読んで行動します。こんなにも先を読むのは大貧民でもUNOでもありませんでした。そういえば友達の家でも大貧民とUNOをやりました。すると如何しても勝ってしまいます。ウチの旦那さんもその場にいたのですが、旦那さんはわざと1番にならないようにコントロールしていたと話していました。旦那さんの趣味は将棋なので、この手のものが苦手なわけがないのですが、不思議と1番に1度もならなかったので聞いたみたら、そうこたえたのです。そのくらい私たち夫婦は「戦略」のあるゲームを好みます

ボードゲームと言えば思い出したことがあります。昔、カルカソンヌ(Carcassonne)というボードゲームを友達の家でやりました。その時も勉強ができるか否かが出たと思います。友達はルールを知っていたのですが、私ともうひとりはその時はじめてカルカソンヌをプレイする形でした。そのため、その場でルールを覚えながらプレイする形だったのですが、私はすぐにルールを理解してゲームをできるようになりましたが、もうひとりは最後までルールを理解できずに、最後には「この絵だと可愛いから」と言ってカードを並べるようになったのです。別にそれでもゲームはできるのですが、勝つことはできません。私はカルカソンヌをやった時に「能力差が出るな」と感じました。

他にも「能力差が出るな」と感じたことがあります。人狼をやった時です。人狼は大学の頃のアルバイトのメンバーつまりは塾講師仲間とやりました。ここでも偏差値の高い大学か否かで強い弱いが出るなと感じました。こう言えば差別的になるかもしれませんが「勉強ができる」方が「戦略」に強いのです。

断っておきますが、カルカソンヌをやった時の友達ともうひとりは大学偏差値ランキングで言えば友達の方が低い所を出ています。しかし友達は大学在学中や社会人になってからも勉強し続けている人です。検定を受けたり、新たに何かやったりということをしている人です。もうひとりは気分で生きているような子でした。大学、社会人中には本を読んでいないのではないでしょうか。現に家に遊びに行った時に本の1冊も置いておらず、かと言ってネットで読んでいるわけでもなく、インスタを投稿することを生き甲斐にしているタイプでした。

ここまで書いて断るのも何ですが、私は「勉強」に対して「特別な想い」がある方だと思います。自分が「勉強している」という感覚はありませんが、側と比較すると「勉強している方」だと思います。自慢とかでもないのですが「なぜかボードゲームが得意だな」と思うのです。その傾向を自分の経験から思い返すと「勉強かな」と思うに至っているという形です。また、勉強をしていない人、している人の言動の違いを見ていると、勉強していない人は「そこじゃないのに!」という所で囚われていたりします。物事の客観視ができていないのです。目の前のことに囚われてしまうのです。目の前のことに囚われない手段としてマインドフルネスなどがあることは理解していますが、「実は勉強が最も有効的なのではなかろうか?」と思っているわけです。

私はこれまで働く形と距離を取ってから、様々なゲームをしてきました。モンスターハンターに始まり、リングフィットアドベンチャ、スプラトゥーン、ファイアーエンブレム、ピクミン、逆転裁判、マリオテニス、キャラバンストーリーズ、ファンタシースターオンラインなど書き出したらキリがありません。その中でもウィングスパンは「ハマった」という感覚があり、お気に入りな点は5つです。

まず基本は自分と向き合えば良い点です。誰かに自分の手元を荒らされる心配がありません。自分を固めたら周りの状況を気にします。他のゲームであればいつ自分の陣地が荒らされるか警戒しながらやるのもあるかもしれませんが、基本的にウィングスパンは自分を気にしていればゲームが成立します。その点がとてもリラックスできるのです。

第2にボードゲームを通じて人と交流できる点です。大貧民や人狼をやっている際もそうですが、人が織りなすイベントやリアクションが面白いのです。ウィングスパンはそれが当てはまり、人との交流が楽しいなと感じます。相手の考えを読むのが面白いなと感じるのです。

3つ目は限られた時間で終わる点です。キャラバンストーリーズ、ファンタシースターオンラインなどのゲームは「良い装備」や「良いキャラクタ」を作ったり手に入れるために、地道な作業を繰り返す必要があります。マインクラフトなどとこの点は似ていると言っても過言ではないと思います。このように無限な時間がかかるゲームに対して、ウィングスパンは始めたてでも、何度ややったことある人でもかかる時間は同程度です。そうして1時間以内には終わります。この手軽さも「心地よいな」と思えているのです。ピクミンなどの限られた時間の中でタイムアタックのように進めていくゲームであると気持ちに焦りが生じてしまい、私には向いていませんでした。リングフィットアドベンチャは体的に疲れて限界が来るゲームでした。

4つ目はスキルがなくとも強くなれる点です。ボードゲームのルールを覚えることは、私は苦なくできました。これはチュートリアルを読んだらルールを理解することができて、自分で難なくプレイすることができたという形です。対してスプラトゥーンなどのゲームはリモコンを操作して狙うという動作が出てきます。「アクション」と呼んだりしますが、私はこれがどうにも苦手でした。

5つ目は相手が人であり、予想が裏切られることがある点です。モンスターハンターなども人と交流しますが、敵がCPUです。そのため、ひとたび敵の動きを覚えてしまえば作業になってしまいます。スプラトゥーンも相手が人ですが、器用にアクションできることが強くなる秘訣なので、私には不向きでした。アクションは頑張らないとできませんでしたが、戦略を立てるのは頑張らなくてもできるのです。

予想を裏切られたりすることが私には必要なのです。人生でも同じです。同じ会社に居続けることは先が読めて飽きてしまいます。ゲームで言うと「次はこのキャラクタを仲間にすればいいのか」や「次はきっとこのアップデートがくるな」と予想できます。元のベースから大きく変わることはないのです。

自分でもウィングスパンにここまでハマると思ってなかったので、やっぱり自分は理系、ロジカルシンキングみたいなところが得意なのかもしれないと思うに至った所以でした。以前の仕事はやっぱり向いていたなと思いつつ、それでももう飽きてしまったゲームをやり続けるよりも「新しいゲームをつまらなくても良いからやってみたい」と思うのが私なので、今後もコロコロとやることを変えて生きていこうと思います。久々に気持ちを書けてスッキリしました。

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