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自分は大丈夫と思えると

自分は大丈夫と思える状態は2つある。根拠立てて大丈夫と思う状態と、根拠なく大丈夫と思う状態である。前者は囚われがある。後者は囚われがない。前者がいけない、後者が良いと言っているわけではない。ただ、前者である限り、どこか窮屈になる。制限がある。判断しやすかったり、物事を進めやすいかもしれないが、それがいいというわけではない。結果が出るかもしれないが、一時的である。根拠立てて考えたことでも、状況は変わる。その都度それを積み重ねる必要がある。大変な労力が必要である。人に説明しようなんてするならば、もう大変である。その周囲の人々が納得するような形にする必要がある。この説明は一見正しそうに見えるが、ある起こり得る状態やそう分析できる一つの形にすぎない。

根拠なく大丈夫と思えると、行動が自由である。自発的に行動する。無理に物事を進めようとしない。勝手に取り組んでいる。上手にやろうとしない。1から自分で考える。たまたま世の中で提唱されているやり方、形になったりはするが、それは結果的にである。1から自分で考えていることであるため、自分のことのように話せる。その話にはどこか説得力がある。その目はイキイキしている。意欲的に取り組んだそれは、いつしかユニークなものになっている。あ、これはあの人がつくったものだな、と分かるものになっている。特徴がある。自由である。自由な人の説明を、周囲に話せば、なぜか納得される。これが弱みなんじゃないの?こうした方がうまくいくんじゃないの?こういったケースは検討した?あれこれ言ってくる。それに対して、その人なりに説明する。簡潔なこたえであるかもしれないし、長い説明かもしれない。しかし、それは1から自分で考えたことである。一から自分で考えた、生み出したものは、人を説得する。結果的に人がついてきてたり、信頼してたり、この人はまぁなんとかするだとうといった形かもしれない。どういった形であれ、周囲は説得する。その人が信じられる。その人を周囲は観察したり、変化する姿を楽しむ。好む。好きになる。

根拠立てて大丈夫と思っていると、その行動に制限がある。型にはまった行動をする。その型に沿って進めるので、時には無理に物事を進める。無理をするので疲れる。疲弊する。疲れると、脳が休む。受動的となる。何か人から言われれば、あらゆる知識から状況に合わせて論理立てて説明する。時には感情に訴えて説明する。しかし、そこには苦しさがある。本人は心のどこかに不安がある。どこか大変である。やりたいと思ってやっていることではないので、その行動は受動的になる。何か起こってから対応する。一応、起こり得る状態はあれこれ考えるが、予想外のことが起こる。疲れる。休む時は、そのことなんて考えない。むしろ考えないようにする。避ける。何か他のことに没頭したり、根拠立てて大丈夫と思っていることから距離を置く。また、どこまでやってもこれで大丈夫と思えない。もっといい状態があると思う。それは何か技術をつけること、知識をつけることをしようとする。しかし、どこまでできるようになっても、結果がついてこようと、うまくいかない。大変である。本当に困難だらけである。

自分は大丈夫と思える状態は、より満たされる。結果を連れてくる。どんな自分にもなれる。ただ、やりたいと思って選択するだけである。


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