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安心している人の新たなとっかかり

私は日頃不安な人に関する記事を書いている。不安な人に関してはおおよそ体系立ってきた。囚われの観点から本能的、論理的、感情的な囚われとして不安な人の特徴を語っている。

しかし、安心している人に関しては考察があまり進んでいなかった。そもそも安心している人は少ない。安心している人が不安な人に振れることもある。キーワードしては#エゴのない意欲、#子供のよう、#バランスが取れている、#流れが読める、#欲がない、#目標を立てない、#今を生きているなどと語ることはできるが、その実態を誰でもなぞれるようになっている形とは正直言えないかなと捉えている。

そのような中で安心している人の新たなとっかかりができた気がするので、ここに備忘録も兼ねて綴っておこうと思う。

安心している人は大義名分がない事に気づいたのだ。世の中で語る”自分はインドの水不足の問題を解決しようと思った”や”飼い主のいなくなったペットを保護することが自分の役目です”などといったことを最初から思っていた人ではないのだ。これを大義名分という言葉で指すにはどこかニュアンスが異なるなと思ってはいるのだが、そのようなところだ。目標、世の中に自分がどのような効果として働きかけるかを意識していないとでも言うのだろうか。もう少し語るとするならば、その辺の本屋さんや動画で多くの人が”成功者”と捉える人は大抵、”自分は〇〇を活性化したいと思って”などと語るが、安心している人はそれがないのだ。一応、マイクを向けられた時にそれっぽいことを語ることはできる。うわっつらはいくらでも取り繕えるのだが、自分の内側にはその大義名分がないのだ。自分の置かれた環境で、好きなこと、トキメクこと、なぜか夢中になることをやっていたら、マイクを向けられる人となっていたのだと思う。

初心に、物事を始めた時に大義名分がある人は不安な人となる。どんなにお金を得たり有名になったり、立地の良い場所に住み、美味しいものを食べたとしても、それは不安な人である。ただ条件が良くなっただけである。本人の心の乾きは潤うことを知らない。世の中の表に出る人はなんと大義名分が多いことか。何かを始める時に大義名分を持っていることか。その姿を見た無垢な人、言い換えるならば安心している人は、周囲の成功している人、憧れる人、キラキラしている人がそうしているからと、目標を立てて、大義名分を作り、不安な人になっていく。無垢であるからこそ純粋だ。何色にでも染まることができる。真っさらなスポンジのような状態だ。それなのに自分からスポンジに色をつけようとする。安心している人から不安な人へとなる。

安心している何者でもない人が、マイクを向けられ周囲に人が集まってくるようにするためには、最初からそこを狙うわけではない。もし結果を狙って大義名分を掲げるのであれば、不安な人となる。仮面をつけた人となる。安心してる人の周囲に人が集まってくる、なぜかお金が稼げるといった形になるためには、やっていたら時間を忘れていた、なぜかずっとできているなということをそのまま続けることである。どんな姿になりたいとイメージを持つ必要はない。それは自分を不安な人に姿を変えるイメージである。

安心している人の新たなとっかかりは”安心している人は大義名分を持たない”であった。それは将来像を持たない、目標を持たないことであった。自分が多くの人に囲まれて、マイクを向けられた時に効果を語るのは、結果的にそうなっているからだ。そこに至るまでの方法を周囲から聞かれてこたえるが、それが周囲にいる人が安心している人になる事にはつながるわけではない。むしろ不安な人につながる。自己啓発本などでは目標を立てることや自分から何かやってみることを推進しているが、これをやることで安心している人になるわけではない。何かを目指して頑張ることは、何者かになろうとすることは、逆に自分の首を締めることとなる。仮に何者かになったとしても、不安な人のままである。何をしても満たされることはない。この状態から安心した人に戻るためには頭を空っぽにすることである。



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