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魔法使いのなみだ(3)

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 ユキはどんどん青ざめていく。手元の花をそれでも無造作に引っつかみ、いくつかのバケツから数本の色とりどりの綿を付けた花を抜き取り、鍋を戸棚から引っ張り出した。中に水を入れ、火にかける。黒いみつあみがひゅんひゅん揺れる。水はすぐに沸騰した。そこへ今選び取った花の束を鍋に入れ箸でかき混ぜる。その動作に少しの無駄もなかった。ミサトには彼女がなんの作業をしているのかまったく検討もつかないが、それでもユキは慌てているということは理解できた。
 誰かが言っていたウィンシーを助けるために。

「ユキさん、ぼくが手伝えることない?」
 なにも分からないなら分からないなりになにか仕事があるのではと考え、もうほとんど泣きそうな表情で鍋をかき混ぜるユキに問う。ミサトはこんなにも自分が積極的に何かをやろうとしたのは初めてだった。
 驚いたのはユキも同じだった。それははたしてミサト自身の驚きと同じであったか知るすべはないが、それでもミサトの言葉に小さく「ありがとう」を返し、続けて「それじゃあ、」とまで言いかけて鍋を火から下ろし、花の成分の入った熱湯を、戸棚から今度は水筒を持ってきて中に注いだ。ふたをしっかりと閉める。そこまで手を進めて、くるりとミサトに向き直った。ぷんと、甘い花の香りが鼻先をかすめる。
「ミサト。いい? よく聞いて」
 ユキの目はもううるんではおらず、しっかりとミサトを見据えている。黒い瞳がまっすぐに視線を向けてくるのでミサトは目をそらしそうになったがそれは体がそうさせなかった。心と体がばらばらに、しかしミサトを助けようとしているなにかの意思を感じる。
「今からなにを見ても、なにを知っても、絶対に驚かないで。ミサトにはさっきの声が聴こえたでしょう? 彼らは人間を特別警戒するから。だから、」
 ――――魔法使いのふりをしろ、と。

 ユキとふたりで森の中を駆ける。あの丸い空間を抜けると、やはりそこには泥や土の地面が広がり、落ち葉や小枝が足を取った。もう闇に包まれているようなこの暗さは、ユキの小屋へたどり着く前の景色とまったく同じである。ミサトはひとつ震えた。しかし今はユキとふたりである。ユキは迷いなく道を進んでいた。言われずともウィンシーの元へ向かっているのはわかった。この森にいると不思議と冷静なミサトだが脚力に変化はないようだ。腰のあたりで跳ねる水筒や、背中に背負ったリュック(パンがいくつか、薬のようなものがいくつか入っている)が傍から見れば遠足に行くような出で立ちで、とにかく走っていた。

 ふと前方に黒い影が見える。ユキが「スマック!」と叫んだ。
 スマックと呼ばれた影が「こっちだ! 早くっ」と先ほどの野太い声で返事をした。どんどん近づくスマックとウィンシーにミサトが違和感を覚えたのは葉の屋根が取り払われたそこで月明かりが照らしだすふたりの姿を目にしたときだった。
 ――まさか、おおかみ!
 危うく声をあげてしまうところだった。ユキの忠告とも言える先ほどの言葉がなければ確実に悲鳴をあげていただろう。なにを見ても驚くな、魔法使いのふりをしろ。


 ミサトは引きつる気を持ち直してユキに続く。座る狼がいるがそれがどうやらスマックだった。スマックの足元にもう一匹同じような藍色の毛並みをした狼が倒れていた。それが恐らくウィンシーだろう、ひどく荒い呼吸を繰り返してときどきびくりと震えていた。
 二匹のそばに着くとミサトは息を整えながら、はげしく脈打つ鼓動を落ち着かせた。ユキは疲れている様子もなくスマックと何やら言葉を交わす。狼は自分たちよりもふたまわりは大きく、ミサトは目が合うだけで心が震えそうになった。
「今回は、わたしもまだ試したことがないの。でも、きっと、大丈夫」
「ユキ、頼むよ」
 そしてユキは振り返りミサトに視線を投げる。目が、リュックの中身をちょうだいと語っていた。
 ――もう少し待ってという声は絶対に出せない。
 それを悟るより早く、体は動く。水筒を手早く渡しリュックを開く。ミサトはもうなにやらたくさんのことが起こりすぎたのか、開き直ったのか、自身でもよく分からないまま狼のウィンシーの横でパンと薬を取り出していた。今はこの狼のいのちが最優先に思えた。ふと地面を見ると、ここはたくさんの落ち葉で埋め尽くされていた。スマックがウィンシーのために少しでも負担がかからないように敷いたのだと気づく。
「ユキ、こいつは?」
「助手のミサトよ。あなたたちの言葉がわかる魔法使い。……さあ、ウィンシー口をあけて。これなら効くはず……」
 ユキが水筒の中の液体をそうっと口に運ぶ。大きな口がやはり狼のそれであることに変わりはない。それでも震える肩をこらえる必要がないことに気づいた。怖くないのだ。それよりも狼のウィンシーが助かってほしいという、昨日のミサトには決して想像もできないような心情と状況が、今、体の中と外とを駆け巡る――。

 数十分後、ウィンシーはまだ立ち上がることはできないものの、ぐんぐんと快方に向かった。体の震えはすぐにおさまり息も深いものに変わっていき、目をしっかりと開けるまでに至ったのだ。
「よかった……」
 ミサトは思わずそう呟いていた。目の前で起きた出来事が“普通ではない”ということすら忘れて。ユキも「よかった、今回は救えてよかった」そう言い涙を流した。スマックがおうおうと雄たけびをあげ、それでもウィンシーの名を呼んでいた。
「じゃあ俺たち、今日はここで眠ることにするよ。ユキ、あと助手のミサ、ありがとう」
「また、いつでも呼んで」
「ユキ、ありが……う」
「無理にしゃべらないで。お腹がすいたらまずはパンを食べてね。ちょっと苦いかもしれないけど。またなにかあったらすぐに呼んで。……じゃあね」
「さよなら……」
 ミサトとユキは二匹の狼に別れを告げると静かにその場を後にする。そっと振り返ってみると、そこにはやはり月光の下で藍色の毛を持った二匹の狼がいるだけであった。


 continue...

image by:brumtil

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