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魔法使いのなみだ(2)

 ◆□◆□

 目の前には陶器のマグカップ。中身は濃い茶色の液体が入っていて、これはココアだといって手渡されたものだったが、ミサトはおそろしくて口をつけることができずにいた。

 今座っているのは小さなキッチンにおかれた小さな木の椅子で、そろいの木のテーブルもまたそれに合った大きさだった。魔法使いという少女は向かいの席に座りじっとこちらを見据えている。ミサトはどうか食われませんようにとだけ祈りながら沈黙に耐えた。


 ちらりと天井を見ると様々な色の乾燥された花(……たしか、ドライフラワーといった気がする)があちらこちらにぶら下がっている。この部屋にあるものの中で一番大きな茶色の戸棚には、赤や黄や橙の綿をつけた草のようなものも束になってかかっていた。なんとなく、いい香りに包まれた部屋だと思った。
「あんた名前は?」
 唐突に少女は口を開いた。こわばった体がびくりと震える。しかし答えないわけにもいかず、観念して重い口を開く。
「ミサト」
答えたけれど、親に叱られたような気分になって顔をふせる。少女はふうんとたいして興味なさそうに言い、それからふたたび妙な沈黙が降りた。
「わたしは、」
 びくっ。思わず肩が揺れると、ためいきをついて心底あきれたという声が飛んできた。
「あのねえ、いちいちびくつかないでよ。誰も取って食いやしないわ。おばあちゃんのおばあちゃんの、千年くらい前のおばあちゃんも、人間に怖がられていたみたいだけれど。いいかげんにしてほしいわ、まったく…………。じゃなくて、わたしは魔法使いのユキ。ここで薬屋をしながら森を守ってる。おばあちゃんが去年死んでからひとり暮らしよ」
 ……と、魔法使いユキは早口に自己紹介をした。ミサとはその様子を何も言えずにぼんやりと見つめていた。いや、そうするしかなかったのだ。


 ――魔法使いだ。それも本物の。


 しかし、ミサトの聞いていた話とは食い違う部分があったため、話の途中で聞き返しそうになってしまった。言い伝えが本当か、この目の前の少女が真実か。ミサトはどちらを信じればよいのか分からなかったが、先ほどよりも緊張感がとけていることに気づくのに、そう時間はいらなかった。とにかく、何かをたずねてみよう。ミサトは勇気を出して口を開く。
「あの……その……。ユキさんは本物の魔法使いなの?」
 おずおずそう口にすると、ユキははっとするほど可愛らしくミサトに微笑んだ。
「そうよ」
 それに安心したが、それでもまだ警戒した表情で同じように笑みを返し、ごくりとつばを飲みこむ。仕草ひとつひとつを見られている気がして身が縮こまりそうになりながらももうひとつ質問をしてみることに決め、ユキからは見えないひざの上で、ぎゅっと小さな手を握りしめた。
「ぼくの知る魔法使いは、ええと……、魔物が人間を食べて人の体を手に入れたのだと聞いていたの。それに、本当に時々だけれど、動物や家畜が襲われているのが見つかることもあって。すごく怖いんだ。これも君たち……? ……君の? 仕業なの?」
 最後のほうは声がふるえたがなんとか言い切ることができた。ミサトはユキのような魔法使いが何人存在するのかを知らない。うつむけていた顔を上げて、はっと息をのんだ。
「ユキさん? あの」 ユキはとても悲しそうな顔をしていた。黒いと思っていた髪はその上をすべるようにたくさんのひかりの粒をきらきらさせていて、黒目がちな二重の目はすごく可愛いけれど子供っぽくも見えた。「わた、し」少女はゆっくりと悲しそうな表情のまま目をふせ、ひとつ小さく息を吐いた。
「もうね、魔法使いの種族もだいぶん減ったの。やっぱり人間が増えたせい。でもね、だからってわたしたち魔法使いは、人や家畜を襲うなんてこと絶対にしないよ。絶対に」
 ぜったい、のところをとにかく強調してユキは言った。その顔に嘘はなかった。
 ――魔法使いだから、表情を消したり嘘を上手についたりできるのかもしれないけれど。
 ただなんとなくミサトはユキのことを信じ始めている。会って数十分しか経っていないがそれでもどこか印象は変わったのだろう。
「握手をしようよ」
 ミサトはふたりの間にあるテーブルに右手を差し出し、微笑んだ。今朝のミサトが聞けばびっくりして尻餅をついてしまうようなことばかりが今起きているが、そのとき一番驚くのはおそらく、ミサト本人の言動に対してだろう。
 ユキは数秒経って、「ああ、うん」とか一度左手を出して「あ、反対か」とか言いながらやっと右手を出して握手をしてくれた。
 ぼそぼそと小さな声でユキが、「これが友達との握手なのね……」というのを、ミサトはぎゅっと強く手を握って答えた。
 


 さて、どうしよう。というのはミサトの率直な感想だった。結局ココアに口をつけるほどの勇気は最後まで芽生えず、魔法使いの薬屋のこともよく分からないままである。魔法使いの人食い魔物説は、では一体誰が広め、実際に起きた事件は誰によって行われたのだろう。

 ミサトは頭を抱えた。

 今ミサトがいるのは小屋の一番端の部屋だ。外観は小さいが中は意外に広くユキの部屋や先ほどのテーブルと椅子のあった少し広めの部屋空間(多分キッチンだろう)などの使用中の部屋以外に、空き部屋がふたつもあった。そのうちひとつをミサトは借りた。ユキに「今夜はもう暗いから泊まっていったらいい」と言われ、やはりそこは魔法使いの申し出を断ることはできず、今に至る。両親に連絡はできないが、明日事情を説明するしかない。


 部屋には小さいが簡易ベッドと思われるものがしつらえられ、中は木と、かすかにハーブのような薬草の香りがして居心地がいい。天井から裸電球がぶらさがりそれが唯一のあかりであるが、あたたかな淡い光が部屋をオレンジ色の空間に仕立て上げていた。隅に木の二段の引き出しがあった。中はどちらも空。ミサトはこれまた借り物の毛布に潜り込んで、もう一度考える。


 魔法使いで、薬屋だと言ったユキ。しかし街に伝わる噂は事件として実際に起きている。…………わからない。そもそもユキが魔法を使うところは見ていないし、もしかしたら普通の人間の女の子なのではないか。または本物の魔法使い(人を食った魔物)が少女を監禁しているのかもしれない。これ以上被害を増やしてほしくなければ、魔法使いとして薬屋の仕事をしろと脅されて……。

 ミサトの想像はいつしか妄想へと変わり。コミカルな劇の様をイメージしていた。それがいかに馬鹿らしいことであったのか、頭のパンクしそうなミサトが知るのは、翌日のことだった。



 次の日、ミサトは朝一番で帰ろうと思っていたのだがなぜだか気づくと空は夕焼けに染まっていた。部屋を出、ユキの姿を探して歩き回っているときふと見えたのは丸い大きな窓からのぞく綺麗な橙色。
 ――なんてこった。
 ミサトがふたたび頭を抱えそうになったそこへ、ユキが慌てた様子でキッチンへと駆け込んでくる。昨夜と同じ格好だったが髪がみつあみに結われていた。開いた扉から夕日の色が差し込んできて本当に夕方なのだと実感した。巨大な木の戸棚や昨日は気づかなかった流し台や足元にいくつも置かれた大瓶にバケツたちも、ひかりをうけて呼吸をしているようにすら見える。ばたりと扉が閉まった。周囲を見渡すミサトに気づき、ユキが驚いた声をあげる。
「ミサト、何で起きてるの?」
「え?」
 まるで意味が分からず問い返すと、ユキがしまったという顔をする。その一瞬をミサとは不思議に思い訪ね返した。慌てていたはずなのにユキは元からそうであったように流し台に向かってその場に立ち尽くす。
「もう夕方だよね?」
「う、うん」
「どうしてぼくが起きていたらおかしいの?」
 ユキは腕にいっぱいの花を抱えていた。その花の一本を持ち、いじりながら答える。
「だって、夜まで寝ていると思ったから」
「夜まで? 寝過ごしたくらいだよ」
 赤い花びらをぷちん、と一枚ずつはがしながら少女はしきりに「だって」と呟く。つるつるの茎の長いステッキみたいな花。ミサトはふとその花に似たものを母の庭で見かけた気がした。

 ――同じ? ううん、少し違うか……?
 ミサトはこんなときだというのになぜだか冷静だった。まるで、神経のひとつひとつ、いやもっと細かな細胞が生きて、ミサトの心を励ましているように。こんな感覚は初めてじゃない。なにかが弱虫な泣き虫なミサトを、冷静で冴え渡ったミサトに変化させたみたいだった。
「ユキさん、その花は?」
 訊かずにはいられず、ちらりと花に目をやる。
 ――やっぱりどこかで見たことはある。でもそれがどこだったのか……。
 ユキは別の花を掴むともう一度花びらをちぎりだした。気づくと空からの陽は消えうせ、夜のにおいが立ち込める。あたたかな陽光の面影はもうない。だが、あかりはひとりでについた。テーブルの中央に置かれたろうそくが、とてもあかるく朱色の炎を揺らめかせている。
「これは、別になんでもない。言ったってわかるわけない」
「え? ぼく、全然意味が分からないよ」
 ユキはすねたように花をちぎるばかりだし、ミサトはミサトで自身でもわからない不思議な感覚だし、正直なぜ夕方に目覚めてしまったのか、この花は一体どこで見たのか、そしてこの魔法使いだという少女はどうして何かを隠したようすなのか、薬屋とはなんなのか、分からない。昨夜からずっと考えていたがもうお手上げ状態だった。
 と、そのとき。
「おい、ユキ! 来てくれよ。ウィンシーがまた苦しんでるんだ!」
 どこかで野太い誰かの声がした。


 continue...

image by:MedicusDrogerie

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