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フワンソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2022.02.19 Saturday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

山田詠美さんが、対談などでよくサガンに言及されているので、ずっと気になっていたのですがやっと手に取ることができました。

『悲しみよ こんにちは』は、サガン19歳の時に書かれた処女小説だそうですが、初読みの時よりも、結末を知った上で読み直した時の方がより面白く、巧みな伏線の張り巡らし具合に驚かされました。中でも伏線という意味合いで特に心震えたのは、物語が動き出す前に、主人公の18歳のセシルが感じていたオスカー・ワイルドのことばに関するくだりです。

〈罪は、現代社会に残った唯一の鮮明な色彩である〉
わたしはこのことばを、実行に移すよりもはるかにしっかりと、揺るぎない確信をもって自分のものにした。わたしの人生は、このことばをなぞり、このことばにインスピレーションを受け、このことばからわきあがっていくのだろうと考えた。

この引用があることによって、物語のラストでセシルが直面する「悲しみ」でさえ、(それが彼女の罪から生まれたものであるためなおさらに)何らかの彩りを付け加えるものとして描かれているような気がしてきました。サガンは「悲しみ」を決して否定的なものとしてだけ描いたのではないのだろうと。

そう考えると、また、当初セシル自身が理解しがたく、感心がないものとして挙げられていたベルクソンの

〈事実と原因のあいだに、まずはどれほど異質性を見いだすことができようと、また、たとえ行動の規範と事物の本質に対する言明とのあいだに大きな隔たりがあろうと、人が人類を愛する力を汲みとれたと感じるのは、つねに人類の発生原理に接してのことである〉

の一文も、ラストのセシルにとっては、まさに(想定外の結果をもたらした)自分自身の行いそのものに降りかかるものとなっていて、象徴的な引用であったのだと感じました。

セシルが自分らしい選択を重ねていきながらも、それが彼女の予期しない結末へとつながっていくストーリー展開の中で、彼女の心情描写が(伏線のように)丁寧になされているところに、18歳という若さ故の「残酷さ」と「もろさ」が際立つ作品となっていると感じました。