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ホタル観察会というジレンマ

毎年6月の夏至近くの土日には、ホタルの観察会を開催している。

これが結構好評で、一晩に数千人の来園者があったりする。夜の数時間だけで数千人だから、人の密集具合はゴールデンウィーク並みである。

とはいえ、入園料は据え置きなので利益は出ない。絶対に出ない。

そもそも、地方の中小動物園なんて利益が出なくて当たり前だから公共事業として行われるのだ。図書館や義務教育学校で黒字が出る訳がないのと同じ理屈で考えてほしい。

各地方都市に動物園があり、地方に産まれ育った人でもお安い入園料で一通りの分類群の野生動物をじかに見ることができる、という文化的メリットはてきとうに換算すると数兆円にはなる。はずである。

ところでホタルである。

園内に流れる用水の一角で、地元の土地改良区(用水の管理組合)や地元の自治会、小学校、地区センターなどと連携して水辺ビオトープを整備したのが十数年前である。

以来、草刈りや清掃作業、えざらい、同じ水系からのカワニナの放流などの管理を毎年続けている。

その結果としてのゲンジボタル乱舞な訳である。

なので、ホタルを見に来た人に届けたいメッセージは「三面コンクリートの用水路にも、小さな工夫を施すことでホタルに象徴される生態系を取り戻すことができるんですよ」であるべきなのだが、真っ暗な中、会話しながら流れていく観覧者に対しては、視認的なラベルは使えない。

しゃべりによる解説も、出来てせいぜいゲンジボタルの基本的な生態や生活環くらいで、それすらもちょっと喋れればいい方で、9割がたは安全とマナーに関する注意喚起(立ち止まると危ない、フラッシュを使わないで、三脚は出さないで等)に費やされる。

結果、ホタルに代表される環境の保全のためにホタル観察会を実施しているはずが、「ホタルは有料施設でお金を払って列に並んで見るものだ」という社会を作る側に立ってしまっている、というとんでもない大ジレンマを抱えこむことになるのだ。

これは実は、どの飼育動物の展示にも当てはまる、動物園のラジカルなジレンマでもある。「でもホッキョクグマって動物園行けば見れるよね」という社会はもういろいろな意味で終わっている。

ホタルは「ホタルに象徴されるナニモノカ」という環境や文化や歴史民俗を象徴するイデアであるべきなのだが、その途中の説明を端折ってしまうと「兎に角ホタルさえ見れればいいや。ホタルもっと増えればいいのに」という短絡に陥ってしまう。

ホタルに限らず、同じ現象はメダカやサケやカワセミやサクラでも起こりがちである。ある種に注目しすぎるあまりに、興味がそこで止まってしまうのである。そして、止まってしまったほうがテンプレートとしてそのイベントを続けやすいという甘い罠さえ兼ね備えている。

この、集客力だけは絶大な「〇〇(生物種名)を増やす・見ることが自己目的化しがちなイベント」を、いかに保全活動の広告塔としてきちんと位置付けていくか、毎年頭の痛いテーマである。

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