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とある虐待サバイバーの重すぎる生い立ち

初めてnoteを書きます。親の目に触れるのが怖くていままで伏せていた過去を、できる範囲で並べてみます。

0歳
PC修理業の父親・PCインストラクターの母親の元に生まれる。生後間も無く父親は仕事のため東京・秋葉原に単身赴任。

2歳
父親が秋葉原から帰還。「自分だけのPCショップ持ちたい」という夢は失敗した模様。静岡の実家に戻ると、そのストレスの矛先が息子に向き始める。団地の階段から転落して、頭部を激しく打ってしまう。
ある晩、深夜に目覚めてしまい、隣の部屋から物音がするので扉を覗いた結果、両親の性行為を目撃してしまう。これがきっかけで、生涯にかけて性的な話や猥談を楽しめないどころか恐怖・嫌悪感を抱くようになる。

3‐4歳
妹が生まれる。妹ばかりが優遇され、兄弟間差別が始まる。親に頼れず、妹の食事を作ることもあった。

5歳
保育園に入る。「この子はみかんの皮が剥けない」と園長先生が母親に警告。発達障害であるが故の問題行為が起きるたびに、母親に世間からの非難が集中していく。もくもくと一人で屋内でお絵描きをしていて、外遊びをするのは稀だった模様。

7歳-11歳
小学生になる。校内で同級生からのいじめを受け、家では父親に殴られる生活。母親の方針で音大受験を視野に入れたピアノやソルフェージュ、声楽の習い事を始める。しかし、母親の「音大に進学させてもらえなかったから、演奏家になりたかった」という夢を息子に叶えさせようとしていることまでには気づかなかった。唯一の心のよりどころは、母方祖母の自宅でお菓子をもらいながら妹と共に宿題をする時間だけだった。

12-15歳
県内進学校のひとつ、とある公立中高一貫校の中等部の入学試験に合格。クラス・部活動を通して成績が良かったが、嫉妬からいじめを受けるようになり、良好だった成績が悪化する。ランニング中にバイクの前輪で轢かれる、首を絞められる、風呂に首を押し込まれ溺死しかける、滝から落とされる、夜中に真冬のキャンプ場に捨てられるなど父親の暴力もエスカレート

このころに、父親が妹に「母さんは一度流産した。お前をお兄ちゃんのスペアだと思ってるんだ。」と吹き込み、妹はそれを信じるようになる。妹からの憎しみを受け、兄妹仲も悪化。15歳の時、元自衛官の父親に脅され、高等工科学校(給料が出る自衛官の養成機関)を受験させられるが、2次試験の面接で「父親に脅されています、この学校には行きたくありません。落としてください。」と面接官たちへ懇願し、自らの意思で不合格となり事なきを得る。当然のように父親からは「工科にも受からない役立たずめ」と罵られるようになる。

16-17歳
高校生になる。県外の進学校の音楽科に入学。父方祖母の家から通学することになる。小学生時代からずっと自分と妹を守ってくれた母方祖母が寿命で亡くなる。同時に、父方祖母から陰湿な虐待を受け始める。家事手伝いの質が少しでも悪いと罵倒され、楽器の練習をしても叱責される。やがて心身に限界を迎えた結果、父方祖母宅から夜逃げをし、県外で人生初の一人暮らしを始める。しかし、過剰なストレスやフラッシュバックが発端となり学校内で友達に刃物を向けるなどの問題行動を起こし、学校職員から精神科受診を指示される

精神科医からは「広汎性発達障害(ASD)および虐待による複雑性PTSD・解離性同一性障害」と診断を受ける。警察の指示で静岡へ戻り一人暮らしをやめざるを得なくなる。

18-19歳
別居中の父親が母親名義のクレジットカードを無断使用していたことが発覚。母親の肩には謂れのない何百万円もの債務が圧し掛かったことになる。群馬に住んでいる母親の友人立会いの下、両親が離婚する。妹は父親に、長男の自分は母親に引き取られることになった。

故郷・静岡に戻り、母親が情報の非常勤講師として勤める現地の定時制高校へ転入。療養と受験勉強の日々が始まる。定時制の入学条件に従うため、就労移行支援B型事業所のとある工場で働き始めるが、職場で暴行被害を受ける。知的障害の子どもがスタッフから差別的な扱いを受けたことに自分が抗議したのが発端だった。これがのちのち就職に悩むトラウマのひとつになる。

20歳
定時制高校の教頭に気に入られ、かねてから志望していた私立音楽大学へ推薦入試を受け、無事に合格。授業料3割免除の特待制度に合格したぐらいには、試験の点数は良好だった。しかし、それでも私立大学のため莫大な学費がかかり、奨学金を併用貸与・最大枠(総額900万円以上)で借りても生活費の補填にしかならなかった。母親は、自身の生命保険を前借りしてまで、卒業まで息子の学生生活を支えていた。

21歳-23歳
母親の生活が苦しいことは重々承知していたため、アルバイトを始める。結婚式会場の聖歌隊スタッフを1年、鉄道警備員を2年経験した。それでも生活が苦しく、カードローンに手を出すようになってしまう
就職活動の時期だったが、一度も面接をしようと思えなかった。それは面倒くさいからではなく、しっかりとした理由があった。ある日、ブラック企業についてネットで調べてしまい、セクハラ・パワハラ・低賃金・サービス残業などの労働問題や、中でも精神障害者が面接や就労でひどい扱いを受けていることも知り、高校時代に受けた事業所での暴行被害のフラッシュバックを起こすようになる。授業には出席していたが、家に帰ると過剰な疲労で寝たきりになってしまう日々だった。

24歳
大学卒業後は不動産データ入力のアルバイトを6か月、最後に鉄道シミュレーター製作補助を2か月続けていたが、母親から大学院への受験をするように指示をされる。お金のない母親を苦しませたくない自分はそれを拒否。電話口で毎日のように口論になる。

そしてさらに、母親の取引先が相次いで倒産したことにより、母親が仕事にしていたPC修理・トラブル対応業の経営が悪化。それに伴い、息子である自分に多額の金銭を要求してくるようになる。カードローンの返済も重なって、心身が疲弊していく。

しかしそれでもなお、母親からの執拗な要求はエスカレート毎晩電話が鳴りやまず、ノイローゼ寸前になった。着信拒否にすると、今度は自分の銀行口座から勝手にお金を抜かれるようになった。(月に1万円ほど出金されていた。キャッシュカードは自分の手元にあったが母親は自分の口座の通帳を持っていた。)

勝手に抜かれる金額は徐々に増えていった。アルバイト先から「君のお母さんが会社にやってきて『息子がお金をくれないから、息子の給料から天引きして私にください』と言われたが、断った」との連絡を受け、不安と恐怖が膨らんでいく。

母親による勝手な出金の額が月3万円に達した瞬間、とうとう心身に限界を迎えた。母親に「絶縁状」というタイトルのメールを送り付け、母親との一切のつながりを絶とうと決断する。母親の支配から逃げ続ける生活が始まる。

スマートフォンのGPS機能で追われていたため、アプリを消すために初期化をした。家にも会社にも安心できる場所がないため、都内のネットカフェを転々としていた(住んでいた部屋も母親と一緒に契約した物件であったため、住所を知られていた。)

しかし、睡眠障害によって仕事を欠勤するようになると「親との事情は分からないが、自分の身辺を整えることに専念してほしい、君の人生が心配だ」と心配されるが、会社に迷惑をかけた罪悪感から自己都合退職を選択する。

障害者の知り合いから「生活保護を受けるのを手伝おうか」と提案を受け、相談に乗ってもらった結果、現地の共産党事務所と繋がることになり、水際対策で落とされてもおかしくない生活保護申請を1発で成功させてもらった。カードローンに関しては、自己破産を選択。奨学金の返済も、母親に押し付ける結果となる。

生活再建と障害の療養をしながら、現在に至る。

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。G.K.

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