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針の穴を通すようなこと、早織の朝

小さいころ、秒針が進んでいくのを見るのはなんだか怖くて嫌いだった。でも、1秒1秒刻む針の音を、ぼーっとしながら聞いてるのは好きだった。心臓の音はその位置に触れないと気づけないけど、目を閉じて耳を傾ければ、秒針の音は聞こえる。進んでいく音。時間とともに自分もこの世界に揺られ流れているような、不思議な心地よさがあった。

耳がいいと、よく褒められた。

地元のふれあいプールに行っては、スイミングスクールで習ったばかりの泳ぎを母に披露するような小学生だった。その日のお披露目はひたすらに背泳ぎで、今思い出しても笑ってしまうくらい飽きることなく背泳ぎで25mプールを何往復もした。背泳ぎしていると耳がずーっと水の中に浸かって、自分の身体に水が跳ね返る音が響く。それが心地よくて、帰りの車で「背泳ぎしてるとな、水のメロディが聞こえんねん。キラキラって!」と興奮気味に母に話した。そんな私のメルヘンな感性を、夕食の席で父に伝え、「素敵なこと言うやろ、この子」と、主菜をダイニングテーブルの中央に置いて微笑んだ。そのやり取り一部始終がこそばゆくて、私は隣に座って白米をかっこむ兄のおかずを盗んでちょっかいをかけた。


ピクっと、手元が反応する。水のメロディの代わりに、テレレレン テレレンと無機質なメロディが耳の中でこだまする。ぼんやりと腕時計を確認する。10分ほど電車内で居眠りしていたようだ。

最近、意識が遠のくように眠くなることが増えた。
日記も1週間近く溜めている。
体の不調が順番に声をあげ、色んな痛み止め薬を食後に服用しなければいけない。

ーーーもしかして私、最近調子悪い?

せめて身につける香りは一等お気に入りのものを、とボーナスが出たその日に奮発した香水、その残り香を探すようにマスクの中で鼻を動かしながら、早織は はたとした。

そうだわ。調子が悪い。
ぼんやり眠くなるのは薬のせい、
最近自分を褒められないのは続かない日記のせい、
筋トレする気が起きないのはそもそも息するだけで痛い右半身のせい。

原因に気づくと、その「せい」にできる。ただ、そうしてしまうのは自分の弱さからのようで悔しくて、早織は嫌だった。

でも社会人になってからか、いやずっと前からかもしれない、いつからか「しょうがない、原因があるのだから」と自分を宥めるのがやけに上手くなっていることに気づく。

『出社してエライネ!』
『今朝も早起きしたの?!エライネ!』『生きててエライネ!』
全人類のストレスを受け止め、肯定することによって愛されるために生まれてきたかのような癒し系キャラクター。早織はSNSを開くたび目につくそれらに敵意を持っている。
ー--疲れてるというか、私、ひねくれすぎだ。
早織は香りに迷子な鼻を落ち着かせ、ふっとマスクの中で自分を笑う。
素直に他人の労いを受け止めればいいものを。
肯定されると「まだできる」と強がりたくなる性格。なんとも難儀である。

テレレレン テレレン とまた力ないメロディが車両内に流れる。早織は一度強く目を瞑り、眼力を再度宿らせる。
二重瞼の遺伝には、両親に感謝している。
耳を後ろに引っ張るように表情筋を動かし、表情が明るく見える、早織の中の戦闘モードをオンに切り替える。

ーーー調子?そんな曖昧なものに振り回されてんじゃないわよ私。なんとなく生きる大人にはなりたくないって、日能研から帰る電車内疲弊しきって機嫌悪いおっさんサラリーマン見渡しながら思ってたんでしょう?

眉上に切り揃えられた前髪を睨みながら降りる駅を確認する。
座席を立ち、電車を降りる。

無駄に音の大きい発車メロディに負けじとヘッドフォンの音量を2つ、上げる。

『今私が生きることは 針の穴を通すようなこと
強い風の吹く所で 針の穴を通すようなことだよ』

折坂悠太の声に背中を押されながら、早織はまた前髪を睨みつけるように、目線を上に向けた。


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🎧折坂悠太「針の穴」より

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