幸せについて

拝啓
母上様へ

母上、元気にしていらっしゃいますか。
こちらは母上のご援助のおかげで暮らすことができております。大変感謝しております。
私は今、学校では哲学の授業を主として受けております。
哲学とは、生きることを考えることであります。
私は、そういった「考えなくても生きていけるもの」に心を惹かれてしまいました。
それを学んだところで職業としては何につけば良いのか。それは私にも良くわかりません。
私は、哲学を学ぶことが生きていくための直接的な手段になるとは到底思ってはございません。
それが許されるのはその分野において突出した一部の「哲学者」でしょう。
しかし哲学とは、それらの哲学者だけのための学問ではない、むしろ私は対照的に、間接的には生きることに役立つものだと心の底より思うのです。
ですから、とりあえず私は哲学を学ぶことによって生きることについて考えてみようと思います。この勝手をどうかお許しください。

さて、哲学に関しましては、母上に相談していた幸せという概念について私なりにも考えてみました。
そしてそれなりの、あるいは、私にとって一応の考えの区切りがついた、そんなような気がしておりますので、お伝えしたく文をしたためさせていただきました。

私にとっての幸福には、「やりたくないけれど、やらなければならないこと」もしくは、「やりたくないけれど、やるべきこと」が、つきもののようであります。
つまり、それ(勉強であったり、難解な本を読むこと。または、私自身の将来について真剣に考えることです)をやりたくないからといって、やらないことは幸せではないのです。
つまり、私はやりたいことだけをやっていても幸せにはなれないという人間のようであります。
例えば、いくらやりたいことをやっていてもその中に付随するやりたくないことをこなしていかなければ全体として私は幸せではないのです。
そのことにやっと気づいたような、気がつくことができたような気がしております。
これからは何をすれば自分が幸せになれるのかということを真剣に考えながら、行動をとり、習慣にし、人生へと昇華させていきたいと思います。
私は母上に産んでいただきこの世に生を受けたことに本当に、心の底から感謝しております。この生を無駄にしないよう精一杯生きていこうと思います。
また会える日を楽しみにしております。
くれぐれもお身体にはお気をつけください。

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日記

今日は母上に手紙を書いた。
母上に兼ねてから相談していた幸せの概念について、一通りの考えが固まった。故に、それを話しておく必要があると思ったためである。
手紙の終盤の文章についてだが、母上に産んでいただいたことは非常に感謝しているのは間違いないことである。
しかし、私は生に対する考え方については偽りの内容を記してしまった。
私はサルトルを読んでからこのかた、「実存は本質に先立つ」という考えに心酔してしまった。

実存は必然ではなく、全く偶然のものである

この偶然の生(本日記では実存を生に変換する)というものに基づいて我々は生きることをある意味では強制されているようなものだと私は思うようになった。
だから、手紙では「この生を無駄にしないよう」と綴ったが、正直なところそれは考えていない。
むしろ、「この偶然の生という状況に置かれた私にとって、幸福に生きるということが最良の仕返し(母上に対してではなく、偶然この世に生を受けることを強制されてしまったことに対して)である」と考えていると言った方が心持ちに近い。
偶然の生に生きることを強制されるならば、その生をより良いものにすることが、それを強制する何か(神か?宇宙人か?はたまた自然であったり、宇宙そのもの?それが何であるかはわたしには分かりかねる)に対してできる最大の仕打ちなのではないかということである。
生を強制する何かとは、即ち親であるのではないかと言う人もあられるかもしれない。
そういった考え方も完全に否定せられるものではないだろう。
しかし、想像してほしい。
あなたが生まれた時に、涙を流して「生まれてきてくれてありがとう」と言ってくれたのは誰か?
あなたが苦しくてどうしようもない時に手を差し伸べてくれたのは誰か?
あなたが少しずつ成長していくことをうれしくも、巣立ちを予期して悲しんでくれたのは誰か?
私はそれを想像しては、生を強制する何かに親を当てはめることは到底できないと思う。
したがって、私は、親にはやはり感謝したいと思う。
だが、私は本当に恵まれた親の元に生まれることができただけかもしれない。
だから、もうこの話はよさせていただきたい。
私の日記が他の人に読まれることなどは全く考えられないが、もしも、この文に目を触れる機会があり、気分を害した方がいたならば、謝罪したい。
話を戻すとなると、私はこの偶然の生という状況の中で、幸福に生きることで生を強制されることに対して仕返しをしたいと思う。サルトル風に言えば、「私自身の実存を救う」ということになるだろうか。
もちろん、幸福に生きる意志の中でも、間違いなく紆余曲折はあるだろう。
だが、その中では確実に、私自身の本質とは何なのかという問いの答えを見つけることができる

失礼、これは間違いでありました。
私自身の本質というものをつくりだしていくことができるのではないだろうか。

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